『クリード チャンプを継ぐ男』を観てきた。
パンフレットに掲載されている監督のインタビューに、今作の企画を持ち込んだ動機として
「僕の父がロッキーの大ファンで、子供の頃、父はいつも僕にロッキーを観せてくれた。彼は強い男なのに、この映画を観るといつも泣いていた。それがなぜなのか当時の僕にはわからなかったが、あとになって父は母親、つまり僕の祖母が亡くなろうとしている時に、ふたりで一緒にロッキーを観たことを知った。つまり僕の家族は、世代を渡ってあのシリーズを分かち合ってきたのさ」
と語っている。
監督のライアン・クーグラーは1986年生まれ。
2013年に『フルートベール駅で』で長編化監督デビューしたばかりだ。
まだ30歳にもなっていない彼が、スタローンのライフワークとも言えるようなロッキーシリーズの半ば続編を企画したのはきわめて個人的な理由なのだ。
映画監督業のかたわら、今でのロサンゼルスで、青少年矯正施設でカウンセラーを務めているという。
なるほど、主人公のクリードの不幸な生い立ちや、それに根差したネガティヴな心の動きなどは、職業で培われた経験や慈愛の心をうかがわせる。
クリードは、ロッキーのライバルであるアポロの愛人の息子で、幼いうちに母親を亡くし、「感化院」に送られてケンカに明け暮れて育つのである。
『フルートベール駅で』まで遡ってみても、主人公の黒人の青年はドラッグの売買で刑務所に入った過去があるせいで仕事を見つけることができない状況にあえいでいる。
一度犯罪に手を染めたら、まともな社会に戻ることは非常に困難であるという、悲惨な現実を描いていたのだ。
これら二作を観た時に、黒人社会の現実をあぶり出そうというメッセージ性と、しかしそれだけには留まらない強いストーリーテリング力を感じた。
「黒人であること」がどういうことなのかをきっちり描こうとしている。
ただ同時に、一つだけ惜しいと思うのは、構成能力の低さである。
どちらの映画も、後半にピークが訪れない。
輝くようなシーンはいくつもあるのだが、後半に、観ている側の感情を高ぶらせるような仕掛けがなにもないのである。
カタルシスがないのは、それぞれの映画の性質上理解できるのだが、それでも、これまで一時間以上スクリーンの前に座っていたことが、なにか報われるようなものが欲しい。
ヨーロッパ映画のような落ち着いたトーンで作られているなら、大袈裟なことなどしなくてよいのかもしれない。
しかしこれは画面の作りや演出、音楽の使い方など、どれをとっても、ウェルメイドなハリウッド映画として撮られているので、僕は無意識にクライマックスを求めてしまっているのだろう……とは思う。
たとえばフルートベール駅では、冒頭で「主人公の青年が警察官に射殺される」という実話を基にしているということが明かされる。
そしてストーリーは、彼がまだ生きていることから始まる。
当然、射殺のシーンもストーリーの中で描かれるのだが……正直な話、そのシーンを、どうとらえたらよいのかいまだにわからない。
それは、黒人青年たちの抱える生きづらさを扱った作品に置いて、安易にハッピーエンドを用意したくないという想いの表れかもしれない。
しかし、バッドエンドや悲劇にもしたくない……そんな想いのどちらもが、フィルムに反映されてしまっているように思う。
クリードも、途中の「2ラウンドノーカット撮影、カメラはリングの中」という驚異的なシーンがあるが、それ以降の試合がそんなに面白くないのである。
正直映画を観ていて3回は泣くシーンがあったのだが、最後のシーンはあまり泣かなかった。
(けど祝宴! シェフと近いシーンがあって、そこはすごく感動した。まさか祝宴シェフをパクってないよね?)

ロッキーにはなみなみならぬ思い入れがある。
親父がロッキー好きで、子どもの頃に何度も繰り返し観せられていたからだ。
今、俺は映画を観ることと音楽を聴くことが数少ない趣味なのだけど、思うにそれは父から受け継いだものだ。
父はロッキーやゴジラ、仁義なき戦いといった映画を俺たち兄弟によく見せた。
そしてピンクフロイドやフー、エルヴィスコステロなどの音楽をよく聴いていた。

父は一度も会社勤めをしたことがなく、『暴力』を振るうことで金を稼いできた男だった。
暴力の業界にもいろいろあり、父は結婚するまでは全国を転々としながら仕事をしていた。時には海外に滞在していた。
そんな父が、90年代の初め頃に団体から独立して仕事をするようになった。
その理由を本人から直接聞いたことはなかったが、ネットの書き込みでは「子どもが出来て、あまり家を離れたくないから」というのがその理由だと書かれていた。
業界全体が斜陽だったので、我が家の経済破たんは父の先読みの才能の無さのせいとは言えない。
しかし皮肉なもので、その父の育児方針のせいで、僕たち兄弟の精神は大いに狂った。
彼が担った子育てにおける役割はシンプルで、子どもがいけないことをしたら殴るというものだった。
暴力を生業にしてきた男だったため、人に痛みを与えることに対して感覚がマヒしていたのだろうと思う。
彼が僕たちを殴るのに場所は関係なかった。
家の中ではもちろん、様々なところで殴られた。
デパートでゲームをねだって殴られたことや、夕方の公園で「まだ帰りたくない」と言って髪の毛を掴まれて引きずられたこともあった。
体罰と虐待の境界線など、誰が正しく引けるというのだろう。

そんな父は、自分よりも二十も若い女性と結婚した。
いつだったか、僕が父に殴られて泣いていると母がやって来て、
「いつかこんなところから逃げ出そうね」
と言って僕を強く抱きしめたことがあった。
記憶では、僕はその時小学生だったはずだが、
(自分が殴られたわけでもないのに、この人は何を泣いているんだろう)
と思っていた。
そういうわけで俺は、悲劇のヒロインぶってる女と、人を殴る男が心底嫌いだ。

父が僕に暴力をふるっていたことには背景がある。
父の母が、父とその兄をよく殴っていたのだという。
父自身は、自分が体罰を受けてまっとうに育ったと感じていたことから、僕たち兄弟にも平然と同じことをしていた。
今から考えてみれば、父の精神もしっかりとおかしくなっていた。
皮肉なことに、物事は、本当に長い目で見ないと結果が見えてこない。
それに、仕事でもうまくはいっていなかったようだ。
バブルは崩壊し、景気は急速に下り坂を転がり始めていた。
そのうえ自分を愛していたはずの女性は、いつの間にか自分に男としての魅力を感じていないようだ。
子どもたちは自分の言うことをきかずに、幼稚園でも家でもケンカばかりする問題児と来ている(子どもに暴力を教えられるのは親しかいないが)。
いつからか体罰はただの暴力になり、気晴らしの手段と化していた。
だが、そんな哀れな男を、誰が責めることができるだろう。

僕が五歳の時に、弟が生まれた。
「どうしても女の子が欲しかった」という母たっての願いでつくられた子どもだった。
兄はよく弟に痛みを与え、それがばれると父に殴られていた。
しかし何度殴られても、また兄は弟のことを痛めつけた。
小便を飲ませたこともあったし、それは父と母にばれる危険が少ない方法だったが、それでもやはりあざができるようにつねってみせたりしていたあたり、潜在意識では父と母に見せつけることを目的としていたのかもしれない。

僕が十四歳になった時、「夕食に行く」と、弟と共に母に車に乗せられた。
「なにが食べたい? なんでもいいよ」
と母が言うと、弟は「ハンバーグ」と嬉しそうに答えた。
「もっと高いものでもいいんだよ」と言われても弟は答えを変えなかった。
夕食を終えて、レストランの駐車場に停めた車の中で母は「死のう」と言った。
「お願い。一緒に死んで。こんなところもう嫌だよね?」
「死ぬなら一人で勝手に死ね」とだけ答えて僕は車を降りた。
弟はわけもわからず泣いていた。
僕を残して車は走り出して、その後僕たちは二度と会うことがなかった。

父はますます堕落していった。
しかし活発に暴力は振るい続けた。
後にも先にも、あんなに惨めな男を見たことはない。

僕は大学へ進学したが、その学費は父の母……祖母によって賄われたものだった。
しかし、大学二年生になった時、祖母の用意した金を父が使い果たしたことがわかった。
その後、その時付き合っていた女性が半年分の学費を工面してくれた。
「これは返さなくていいけど、この先のお金は自分で何とかしないとだめだよ」
彼女はそう言ったが、結局俺はそのあと半年だけ大学に通い、残りの二年間の学費を用意する気力が起きなかった。
その後、キャバクラのスカウトマンをやったりしたが、結局、創作をやりたいと考えるようになったので、今は自分でシナリオを書いて同人ゲームを作っている。
要するに、自分で仕事をし、生活の糧を得るようになった。

一般的に求められるような父と母の機能を果たしてくれなかった人たちに対して、今では特に何とも思わない。
28年生きてくれば、自分とは考え方が合わない人間がいるのだということがよくわかるからだ。
関わることのない人たちのことを考えているような余裕もない。

しかし父が昨年の11月に倒れた。
暴力で仕事をしていた人間にはよくあることだ。
僕はすいすいすいさいど! というゲームを作っていて、非常に忙しく、おまけに心労が多かったので、父の入院の世話まで手は回らなかった。
それに、ここ五年ほど会っていない男に、今さら会いに行って難になるのだと思った。

年が明け、いろいろなことが落ち着いたり、まだまだ処理しなければならないことがあったりしているが、そんな時に「クリード」を観た。
そして父のことを思い出した。
彼のことを思い出すことを避けていたように思う。
昔は力が強い父のことを誇らしく思っていたはずだった。
映画や音楽の楽しみ方を教え込んだのも、父だった。
たしかに、頭は悪いうえ、うぬぼれの強い男だ。
だが、あんなに苦しまなければいけないほど、それは罪なことだったのだろうか。
「許してやれ」そんな字幕がスクリーンに映し出されたのを観た時、僕は涙を堪えることが出来なくなった。

入院している父に会いに行った。
ネットでダウンロードした『クリード』を観せてやったのだ。
海外で暮らしていた時期もあるので、父は英語がわかる。(そういえば小学生の頃にアメリカに連れて行ってもらったことがある。父の仕事でだ。それは僕をアメリカかぶれにするには十分な経験だった。そしてアメリカで育った人に誘われて、文章にかかわるささやかな仕事をしている。人生は何がどこで繋がるかわからないから不思議だ)
彼もクリードを気に入ったようだった。
今度はゴジラのDVDを持っていこうと思った。