10/サンセットクルージング

「おかえり」
「……ただいま」
家の玄関を開けると、母さんがリビングから顔を出してきた。
「なにも持ってないね。どこかで勉強してたわけじゃないんだ?」
「勉強? 違うけど」
「昨日、あんなに話したのに、一日遊びほうけてたってわけ?」
「……」
母さんは腕組みをしながら壁に肩を預け、昨日の夜と同じでまっすぐ射抜くように俺の目をとらえている。
言葉が、やけにすらすらと出てくる。
俺が帰ってきたらなにを言おうか、事前に考えていたんじゃないだろうか。
「明日、お昼から塾の見学に行くから」
「え? そんな、いきなり言われても」
「いきなりもなにもないでしょ。早くやり始めるにこしたことはないんだから。三年の六月からなんて、遅いくらいよ。あんたがあの時、中途半端なところで辞めたりしなければよかったのよ」
「……けど」
「けどじゃないの。あんた、怠けぐせがついちゃってるのよ。人生、だらだら過ごしてたって、いいことなんてなんにもないんだからね。別に明日行くところに通うって決まったわけじゃないんだから。とりあえず、まずは行動することを始めなさい。わかった?」
「……」
「……夕飯はあと一時間くらいかかるから。部屋で勉強してなさい」
母さんは俺の返事も聞かず、リビングに戻っていった。
……明日、か。
なにをするか、ギンが決める日だ。
昼過ぎに公園に集合することにして、今日は別れてきたが、俺が行かないとしたら、あいつらは二人でなにをするんだろう。
……考えようにも、頭がうまく回らない。
部屋に戻って、夕飯の時間まで眠ることにした。

日曜日の午後。
すでに昼飯は食べ終わっていて、歩いて公園に向かっている。
母さんが化粧に集中している間に、家を抜け出してきてしまった。
約束があるから見学に行けないなんて言っても火に油を注ぐだけだろうし……こうする以外に思い付かなかった。
塾の見学なんていつでもできるんだ。
高塔とは、今日と明日しか会えないんだ。
しかも明日までに、あいつに自殺を思いとどまらせないといけない。
自分の中で何度も高塔と塾とを天秤にかけてみたが、やはりこちらのほうが大切なことに思えた。
それに、勝手に決められたことに従うのも、なんだかしゃくだった。
受験のことを、ちゃんと考えないといけないとは思っているのだが……。
良い学校に入って、良い会社に入って……なんて、そんなに先のことなんて、うまく想像できない。
良い学校に入ることが、どうして良い人生に繋がるのか、俺にはまったくわからない。
どうして、楽しいことを優先してはいけないんだろう。
ギンを見ていると、なおさらそう思う。
まぁ、あそこまで勉強しないのもどうかとは思うけど……。
……いいか、どうせ帰ったらまた怒られるんだろうし、せめてそれまでは嫌なことを考えるのはよしておこう。
こういう、やらなきゃいけないことをサボるのって、本当に開放感があっていい。
束縛から抜け出してきたときの、独特の心地よさに包まれている。
知らず知らずのうちに、公園に向かう道をいつもよりも早足で歩いていた。

集合場所には、まだ誰も来ていなかった。
公園の入り口にある大時計で時間を確認した時は、待ち合わせまでまだ三十分もあったので、当然と言えば当然だ。
家を出てくるのがそもそも早かったし、まぁこんなもんだろう。
とは言え、ゲームも漫画も持ってきていないので、暇と言えば暇だ。
一人でパトロールをしてもしょうがないし、三十分じゃろくになにも見つけられないだろうし……。
コンビニで立ち読みでもしていればよかったなと、ここに来て思う。
「……はー……」
とてもいい天気だ。
木々と、水気をたくさん含んだ無数の葉が太陽の光を遮り、地面にまだらの模様を描きだしている。
風が吹くと、それらの模様が意志を持った生きもののようにうごめき、じっと見ているとなんだか落ち着かない気持ちになる。
上のほうを見ると、高塔の結んだロープが目に入った。
……今日と明日でなにもできなかったら、高塔はこれを使って死ぬ。
気まぐれで首つりを選んだわけではないようだし、まぁ、そうなるのだろう。
……。
なんとかしないとな。

「……なにしようか?」
「は?」
高塔に続いてギンもやってきたのだが、こんなことを言いやがった。
「いやぁ、それがさ、考えたんだけど全然思いつかなかったよね。俺がやって楽しいことって、ゲームしかないじゃん?」
「じゃん? って言われてもな……」
高塔のほうに目をやるが、こいつはこいつで別になんとも思っていないような顔をしてた。
「んでさ、ゲームももうやっちゃったじゃん? だからさぁ……みんなで考えよう! 今日、なにするか!」
「……」
呆れて言葉が出なかった。
こいつは……。
ただでさえ、最初に高塔に提案をした時に、俺に頼ってくるなんておかしいとは思ったが、ここまで無計画な野郎だとは……。
「清子ちゃんはさ、なにがしたい?」
「別に……なんでも」
気力の感じられない顔をしてつぶやく高塔。
そうなると、俺が考えるしかないじゃないか。
「んんー……」
なんにも出てこなかった。
「……」
ギンの野郎は、なにもものを言わずに、ただ俺の顔をじっと見ていた。
だめだ……殴りたい……。
俺がやってて楽しいこと……ゲーム、漫画、テレビ、映画……あとまぁオナニーもそうだけど、高塔も楽しめそうなことじゃないと意味がない。
まぁ、高塔もオナニーが楽しいかもしれないけど……オナニーが楽しいのに自殺をしようとしてるなら、高塔の人生でオナニーはそこまで楽しくないということだろうしな。
いや、まだオナニーをしたことがないんだったら、オナニーの楽しさに目覚めて、自殺することをやめるかもしれないぞ。
……。
考えてて、なんか死にたくなってきた……。
ここ何日かオナニーしてないから、溜まっているんだな。
よこしまなことを考えたせいで、高塔からの視線を意識してしまうのがつらくなり、空を見上げた。
「うーん、そうだな……」
風に揺らされる木と枝葉の向こうに、うっすらと太陽の光が透けている。
そういえば昨日、電車が動き出した時に、海が見えた。
海なんて、しばらく行っていないな……近くにあると、かえって行かないもんだよな。なんでも。
……しかし、海に行っても別にすることなどない。
まだまだ海水浴には早いし、ここから歩くと一時間以上はかかるし……自転車ならもっと早いが、家に取りに戻るのはかなり危険だ。
ここでなにかするか、移動に時間のかからない場所に行くかどちらかだな。
しかし、今日は天気がよく、気温もそれなりに高い。
涼しげな水辺を思い浮かべると、その誘惑から逃れるのはけっこう難しいことだった。
「……あ、そうだ。神羽川」
「神羽川がどうしたの?」
「こっからすぐだよな。ていうか、この公園の裏っかわがそうだよな?」
「そうだっけ? 俺わかんねーや」
「……私も詳しいわけじゃないけど、近いと思う。学校に行く時に神羽川の近くを通ってるけど、この山の辺りも見えるよ」
「だよな。別に他にやること思いつかねーし、行かねーか?」
「いいよ! ここにいてもしょうがないしな」
「わかった」
「たしか、この公園から、山の裏側に出る道があったよな。とりあえず道に出るか」
「えぇー、遠回りになっちゃわない? このまま藪突っ切ってけば、降りられるっしょ」
「まぁ、なんとなくは方角わかるし、行けなくはないだろうけど……」
「じゃあいいじゃん! 出発しよー!」
ギンは拾い上げた木の枝を指揮棒のように振るいながら歩き出した。
「いや……そっちはふつうに公園の出入り口だぞ。方向、逆だろ」
「……よし、しゅっぱーつ!」
ギンは何事もなかったかのように、向きを変えて歩き出した。
まったく……。

「迷ったよな?」
「……いや、俺の読みだと、今にも川が見えてくるぞ」
十分ほど歩いているが、俺たちはまだ藪の中にいた。
どうせやることもないのだし、先頭のギンに任せて歩いてきたが、今のところ道にも突き当たらないし、山を下っている気配もない。
この藪もそこまで広いわけではないので、ふつうにまっすぐ歩いていれば、抜けられないことはないはずなのだが……。
「ん……? おっ、ほら見ろ由紀彦、あっちのほう、明るくなってるぞ! 多分川だろあれ!」
たしかに、ギンの指さすほうは少し景色が開けている。
しかし、まったく下っていないので、川であるはずがない。
この山に水源があるなんて聞いたことないし。
「いや、絶対川じゃねーと思うぞ」
しかし、そんな俺の予想をよそに、ギンは駆け出してしまった。
「ほら、早く行こうぜ!」
俺は走るのが面倒なので、歩いていくことにした。
高塔も、ペースを変えずに歩き続けている。
「走らないのか?」
「急がなくても、すぐそこだもん」
「そうだよな」
「おおぉーっ!」
一足先に林を抜けだしたギンが、感嘆の声を上げた。
「どうしたー? 川じゃなかっただろ?」
「いいからいいから! 二人とも、早くこっち来てみ!」
なんなんだ、いったい……。
ギンは興奮しているようで、大きくぶんぶんと手招きしている。
高塔と俺は少しだけ歩みを速めて、ギンのもとへたどり着いた。
「おー……」
まったく下りていないという俺の予想は当たっていたようだ。
その一帯は木が生えておらず、地面は芝が覆っていた。
その先は切り立った崖のようになっていて、神羽川や、その向こう側の山がくっきりと見渡せる場所だった。
神羽川のほとりには野球のグラウンドや、小さな休憩所があるが、だいたいの部分は草木がそのまま生い茂っていて人の手がほとんど入っていないようだった。
川も植物も、光を浴びてきらきらと輝いていて眩しいくらいだった。
すぐそばにこんなところがあったなんて、全然知らなかったな……。
というか、この山に崖があるなんて知らなかったぞ。
「すごいなー! 常生に、こんないい景色が見れるところがあったんだな!」
「なんだ、ここ」
「わぁ……」
高塔も、少し驚いているようで、目を丸くしている。
よくよく見てみるとその空間はどこか異様だった。
崖に沿って低い木の杭が打たれていて、その間をかびて緑に変色したロープが通してある。
バドミントンのコートよりも少し広いくらいの範囲が整地されていて、ぼろくなったベンチが置かれている。
しかし、この場所まで道が伸びているわけでもないので、こんなところまで誰がやって来るのだろうという話である。
「こっから夕焼けなんて見れたら、サイコーだろうな!」
「そうだな……。方角的には、あっちの山の方に日が落ちてくんだろうな」
特に名前のある山ではないが、これだけ長々と連なっているのを見ると、なんだか雄大に思えてくるもんだな。
「あ! あっちの方に道があるよ! あそこから川のところまで下りていけるんじゃない?」
崖に近付いていたギンが、下の方を指さして言う。
見てみると、木々の間をコンクリートで舗装された細い道が通っているのが見えた。
「俺たちがどれだけ道から逸れて歩いてきたか、これではっきりわかったな」
「いいじゃんいいじゃん、こうしていい場所も見つけられたことだしさ! じゃ、あの道を目指そうぜ!」
嫌みを言ったつもりだったが、ギンにはまったく通じていないらしく、とっとと歩き出してしまった。
しょうがねぇな……。
「ん? どうした高塔」
少し歩いて、高塔がついてきていないことに気付いた。
高塔は地面に縫い付けられてしまったかのように、その場に立ち尽くしていた。
「あ……ごめんなさい」
俺の声に、体をこちらに向けたが、視線はまだ川のほうに向いていた。
それか、山を見ているのか……。
「なんかあったか?」
俺に追いついてきた高塔に訪ねた。
「ううん……。綺麗なところだなって」
相変わらず、視線を崖の向こう側に送りながら、高塔が答えた。

山を下りて、平坦になった道をしばらく突き進むと、景色が大きく開けた。
「うおー、やっべー! 水がめっちゃあるぞ、由紀彦!」
「そりゃ川だし……」
俺の返事を待たずに、ギンは駆け出していった。
なんでこいつは、どうせ歩いてもたどり着けるのに走っていこうとするんだろう……。
神羽川は、こうして近くで見ると本当に大きかった。
橋や山の上から見下ろしているだけだと、錯覚を起こしてしまうのかもしれない。
さっき崖の上から見えていた、川の向こう側にある山々は、ここから見上げると威圧感がある。
こんなでかいものなのに、俺はこの山の名前も知らないんだもんな。
川の流れはとても早く、あちこちで水がしぶきを上げている。
そういえば夏休みの前なんかには、神羽川で泳ぐなと注意を受けたようなような気がする。
「……」
俺の隣で、高塔はただただ川の流れを眺め続けていた。
「っひゃー! 冷てー!」
ギンはぽいぽいっと靴を脱ぎ捨てて、足を川の水の中に突っ込んでいた。
一応注意しとくか……。
「おい、あんまり奥まで行くなよ。おぼれても知らねーぞ」
「いや、大丈夫っしょ! 二人も早く来いよ、気持ちいーぞ!」
ほとりの辺りはあまり水の勢いは強くなく、まぁ足を入れて涼むくらいなら危ないことはないだろうか……。
「けど、どっかにガラスでも落ちてたら足切っちまうからな。ちゃんと足元見ながら歩けよ」
「わーってるっつーの、よゆうよゆう!」
ギンはズボンの裾をまくり上げて、水をざぶざぶとかき分けて歩き回る。
水の色は澄んでいて、川底まではっきり見えるので、危なそうなものがあれば見つけられるか……。
俺は水際でしゃがんで、川の中に手を入れてみた。
「うあー……」
ひんやりしていて、めちゃくちゃ気持ち良かった。
「……冷たい?」
そばに立っていた高塔が、しゃがみながら言った。
「そうだな、冷たいよ。けど、けっこう歩いて体が温まってるから、ちょうどいい感じ」
「……」
「……手ぇ入れるくらいだったら、なんも危ないことなんかないんじゃねーか」
「汚くないかな?」
「汚くはねーだろ。こんなに澄んでるんだし。さすがに飲もうとまでは思わないけどよ」
おそるおそるといった様子で、指先を川の流れに差し入れる高塔。
「……ほんとだ。冷たいね」
「指だけしか入れないんじゃ、気持ちよくないだろ」
高塔は返事をせずに、左腕を少しひねり、手首に視線を落とした。
「……あ」
そうだった。
こいつは手首に傷があるんだ……俺のせいでできた傷が。
高塔のその仕草は、別に俺にそこを見せるためではないのだと思うが、それでも罪悪感が生まれた。
俺はまだ、こいつに謝っていないんだ。
……昨日よりは素直な気持ちで、俺はこいつに謝らないといけないんだと思えた。
「……高塔」
俺が呼びかけるのとほぼ同時に、高塔は絆創膏を指で剥がした。
「あ」
高塔は絆創膏を丸めてポケットに入れると、傷口を指先でそっと撫でた。
絆創膏を見ても血はついていないし、もう傷はふさがりかけていたのだろう。
そのまま、両手を水の中に突っ込んだ。
そして手をひらひらと左右に動かして小さな波を作ったり、握ったり開いたりしていた。
水はそんな高塔の手を、ゆらゆらと屈折させながら絶え間なく流れていく。
「気持ちいいね」
「……そうだな」
また謝るタイミングを失ってしまったな、と思った。
「私も入りたい」
ギンを見ながらつぶやく高塔。
「入るって、足入れるの?」
「そう。けど、流れが早そうだよね……」
意外だった。
高塔が自分から、なにかをしたいと言い出すなんて。
しかしたしかに、ギンは体が重いので安定しているかもしれないが、高塔が水の中に入ったら簡単に足をすくわれてしまうかもしれないな。
「そうだな……あ」
少し左右を見渡してみて、少し川下のほうに、流れが緩いところを見つけた。
中州があり、そのこちら側は本流から離れて小さな流れを作っているのだった。
「あっちのほう、ちょっと水の勢いが弱そうじゃねーか?」
「本当だね。ありがとう」
高塔は立ち上がって歩いていってしまった。
なんか妙に行動的だな……。
「ちょ、おーい! 清子ちゃんどこ行くのー?」
「あの辺の、流れの弱いところ行くってよ!」
「そうなんだ! 今すぐ行くぜーい!」
ギンは川の中を歩いて移動し始めた。
……一度上がったほうがどう考えても早く歩けそうだけど、そんなことは口に出さずに俺も高塔のほうへ向かった。
高塔は脱いだ靴を綺麗に並べて置き、その中に畳んだ靴下を入れた。
長いスカートをたくし上げ、慎重に右足を前に出し、ゆっくりと水面に下ろす。
「ん……」
足の裏が水に触れて、小さな波紋を生む。
高塔の白く、つるりとした足は、そのまま水の中に呑みこまれていった。
「……気持ちいい」
水の感覚に慣れたのか、左足も水の中に入れる高塔。
ほとりを離れ、どんどん深いところへ歩いていってしまう。
……こいつ、こんなやつだったのか?
「お、清子ちゃんもだいぶ入ってるねー! 由紀彦も来いよー!」
やっとここまでやって来たギンが、叫ぶ。
ズボンを膝までたくし上げているが、すその辺りはずぶぬれになっていた。
「いや……俺は別にいいや」
「えー、なんだよそれ。ノリ悪っ」
ノリとか言われてもな……なんか、水の中に入る気が起きずにいた。
水辺でもだいぶ涼しいし、手を入れるくらいで十分だった。
高塔は頭を落として、自分の足元を見つめながら歩き続けていた。
「気持ちいーね、清子ちゃん!」
ギンが大股で歩いて波を起こし、高塔の足が生み出す小さなゆらめきをかき消していく。
「うん……気持ちいい」
「ずっとここにいたいくらいだね。由紀彦もったいねー」
「もったいねーって言われてもな……」
入りたいという気持ちがないのだから、もったいないもクソもないと思うのだが。
高塔は、足を大きく上げて、水のしぶきを遠くに飛ばしていた。
しずくが太陽の光を反射させてきらきらと光る。
何度もくり返しているところを見ると、高塔はそれが楽しいのかもしれない。
高塔は太陽を背にしていて、その顔がよく見えなかったが……。
……そんなに足上げてると、パンツ見えるぞ。
パンツではないが、高塔は白いスカートをはいているので、太陽の光が生地を透かして足の形はわりとはっきり確認できるのだった。
細い。
ギンの二の腕ぐらいの太さしかない気がする。
ちゃんと飯食ってるのか高塔。
しかし、水遊びをする二人を見ているのも退屈になってきた。
ここだったら転ぶことはあっても、おぼれることなんてそうそうないだろうから、少しその辺をぶらついてくることにした。
少し歩いてみて気付いたが、釣りをしている人が多い。
この川のことを全然知らないのだが、わりと魚が釣れる場所なのだろうか。
老後の暇つぶしで釣りをしているのだろうじいさんなんかはどこでも見かけるが、釣竿や格好などが本格的な人が多い。
……見ていると、なんだか釣りがしたくなってくる。
家に帰れば釣竿なんかもあるのだが、今家に帰るわけにはいかないし……。
しかし見ているとやりたくなってくる。
……どこかで竹でも拾ってきて、自分で釣竿を作れないものだろうか。
そんなことすら真剣に考えてしまった。
「……ん?」
川面から少し離れた、背の高い草が生い茂るところに、人工的な色合いをしたものが草の中に頭を突っ込んでいるが見える。
もしかして、あれは……。
近付いていき、拾い上げてみる。
そのまさかだった。
釣竿である。
少し泥にまみれているところを見ると、誰かが捨てていったものじゃないだろうか。
塗装ははげているし、錆びているところもあるから、ここに放置されてからけっこう経っているはずだ。
……リサイクルだ。
釣針を動物や鳥なんかが飲みこんでしまったら一大事だ。
泥棒なんかじゃない、これは誰のものでもない、みんなの共有の財産なんだ……。

「あれ。ギン、高塔は?」
コンビニで釣り餌を調達して戻ってきたら、ギンしか見当たらなかった。
ギンもすでに川からは上がっていて、コンクリートの堤防に腰掛けて水に足を付けている。
「あそこ。寝ちゃってるぜ」
ギンが指し示したところには、一本の大きな木があった。
その枝葉が作る日陰の中で、高塔は幹に背中をもたれて眠っていた。
「疲れたのかな。俺、ちょっと釣りしてるわ」
「俺、シャケ食いたいな。よろしくー!」
「サケの時期じゃないし、多分この川にはいないと思うぞ」
「マジで!? じゃあマグロよろしく」
「俺は松方弘樹か。釣れるわけねーし、いねーよ! まぐろは海の魚だぞ」
「えー、なんだよそれ……。まぁ、とれたてを焼いて食えばなんだってうまいか」
ギンはよくわからない考え方で納得をしたようで、それ以上はなにも言わなかった。
買ってきたソーセージをちぎり、釣針につける。
「ま、見てろって。お前が腹いっぱいになるくらい、ばんばか釣り上げてやるからよ」
俺は意気込みながら、水面に向けて針を投じた。

「……ばんばか、なんだって?」
既にだいぶ日が落ちてきていて、日が暮れかけている。
気温もだいぶ下がり、少し肌寒さを覚えるくらいだった。
魚は釣れない。
「餌はもうほとんどないのにな」
「……今日の魚は、よく訓練されたやつが多いみたいだな」
「にしてもおまえ、一匹も釣れないってのはよう」
「いや、やっぱり、ボロ釣竿じゃダメだな。リールが固い固い」
「……由紀彦って言い訳ばっかりだね」
「うるせー! 全然できねーやつが、文句ばっか言うな!」
と、五時のサイレンが鳴った。
……そろそろ、時間的にもキツイもんがあるか……。
「ごめんね、寝ちゃってたみたい……」
高塔が瞼をこすりながらやって来た。
……そろそろ、撤収の流れになりそうな気がした。
嫌だ……家に帰ったら絶対母さんに文句を言われるというのに、一匹も釣れなかったという悔しさまで抱えなきゃいけないなんて酷すぎる。
「よっしゃー、じゃあ気合い入れ直して、いっちょ釣ってやるか!」
「もう諦めろって由紀彦……。なんかもう、直接手づかみでやったほうが早い気がするもん」
ぐ……さっきからこの野郎、自分はやりもしねーで茶々入れてばっかりじゃねーかよ。
こんなやつに、負けるわけにはいかないんだ……。
と、その時、引きを感じた。
竿の先もしなっている。
「うおー、来たぜー! 頼むぞおい!」
「魚が、かかってるの?」
「そうだよ! お、いけるんじゃねーか!?」
深く食いついていたのか、思いのほか容易に、魚を釣り上げることができた。
竿に引き上げられ、空中でばたばたと尾をしならせる魚。
大きくはないが、収穫ゼロよりはましだろう。
「フィーッシュ! おらどうだギン!」
「んー、まぁそこそこかなぁ……ま、食ってみないと味はわからないか」
「……川魚って、そのまま食べたら危ないんじゃない?」
「……え?」
針の先で暴れてる魚を見る。
顔が小さく、口をぱくぱくと動かしている。
「それ、ボラだと思うんだけど……川魚ってそのまま食べるのには向かないはずだよ」
「……そうなの?」
ギンががっくりと肩を落とす。
「かわいそうだよ。川に返してあげようよ」
魚の暴れる力がだんだんと弱まってきていた。
針が深く食い込んでいるためか、出血もしている。
「んーまぁ、そうだな……戻してやるか」
俺は、釣れた時点でわりと満足していたし。
魚をいったん地面に置いて、針を抜いてやることにした。
しかし、魚が地面の上で跳ねまわるので、なかなかうまく抜いてやることができない。
魚の口から、血があふれ出してくる。
「……よし、抜けた!」
魚の口から針が取れたので、川の方へ投げてやろうと振りかぶった。
「だめだよ、そっと入れてあげようよ」
高塔が俺の手を包み、指を外して魚を取っていった。
そして小走りに水の中に入っていき、そっと魚を放した。
しかし、魚は腹を上にして水面に浮き上がり、ゆっくりと川下へ流れていった。
「あ……」
高塔は、膝を曲げて、その場に座り込んでしまった。
服が水に流され、不思議な楕円形を作っている。
「清子ちゃん、風邪引いちゃうよ!」
ギンは高塔のもとへ走っていった。
高塔がなんだかそのまま消えてしまいそうに思えたのか……俺は靴と靴下を脱いで、高塔のそばに駆け寄った。
謝らなきゃいけないと思った。
「いてっ!」
俺は踏み入れた足に、鋭い痛みを覚えた。
足を持ち上げて見てみると、すっぱりと切れ目が入っていた。
なにかで切ったのだと思うが、水底に視線を巡らせてみても、俺の足を切ったものがなんなのか、見つけることはできなかった。
「……大丈夫か由紀彦」
ギンも高塔も、俺の声に振り返っていた。
「切ったみたいだ」
片足で立っているのがつらくなり、水の中に下ろした。
できたばかりの傷口から、血が流れていき、川の中に不気味な螺旋模様を描いた。
血は流れ続ける水に分解されていき、結局川はすぐに透明さを取り戻していく。
赤い色なんてもともとなかったかのように、大量の水は他の色をかき消してしまう。
こんな川で、楽しい時間を過ごしたのだ。

高塔はそのあと、ほとんど喋らなかった。
俺もなにも言えなかった。
ギンは、はじめは空元気といった様子でなにか言っていたが、やがて黙ってしまった。
足を怪我した俺を気遣って、ギンは俺に肩を貸してくれようとしたが、歩けないほどではなかったので断った。
山を登る体力は残っていなかったので、迂回して、いつもと違う道を通っていき、各々家へと帰った
魚を釣ることに固執しないで、とっとと帰るべきだったのかもしれない。
明日が最後だ。

昨日の反省を生かして、今日は音が出ないようにゆっくりとドアを開けた。
あまり大きく開けずに、体をすべり込ませるように玄関をくぐる。
閉める際も慎重に、慎重に……。
「健ちゃんは、あの子のことちゃんと考えてないのよ!」
ドアを閉め終るのとほぼ同時に、リビングから母さんの声が響いてきた。
俺の帰宅に気付いたのかと思ったが、一拍置いて冷静に考えると、健二さんと話しているのだろうと思う。
「そんなこと言わないでくれよ圭子。俺だって……」
「どうしてあんな風になっちゃったの……私、もうどうにもできないよ」
母さんは、涙まじりのかすれた声で話している。
そんな母さんを、健二さんはなだめているようだ。
……いつもとは、少し喋り方が違うような気がする。
母さんの呼び方も違う。
こんな話を立ち聞きしていたくはないが、俺の部屋に行くにはリビングの前を通らなければいけない。
リビングのドアにはすりガラスがはめ込まれているので、俺がそこを通ると、二人に気付かれてしまうかもしれない。
かと言って、二人がリビングにいるのだとわかったから、玄関を開けても気付かれる可能性がある。
「健ちゃんが、もっと父親らしくしてくれたら、あの子だって……」
「……俺だって悩んでるんだよ。けど、あの子が俺のことを遠ざけたがってるのはよくわかるだろ?」
結局、その場に立ち往生することになってしまった。
「どれだけ言っても、勉強しようとしない、遊んでばっかり……近頃じゃ私たちにも、ひどい態度だし……もう、私の手に負えないよ」
「思春期の男は、みんな多かれ少なかれああいうものだよ」
「そんなわけないじゃない、あんなのおかしいわよ!」
「圭子! 由紀彦君のことをちゃんと育てるって、あの時決めたんだよな? あの子だっていろいろあるんだ。理解しようとする努力をやめたら、どんどん悪い方向にいくだけだだよ。わかるよな?」
母さんが声を上げて泣き始めた。
「圭子……」
健二さんも、小さな声で母さんの名前を呼んで、それから何も言わなかった。
母さんの声が、なにかを押し当てられているような、くぐもったものになる。
……考えたくないけれど、想像するのは止められなかった。
きっと母さんの視界はふさがっているだろうと思い、音をたてないように、けれどなるべく素早くリビングの前を通り抜けて部屋に向かった。
聞いてはいけないこと……聞きたくないことを聞いてしまった。
これ以上ここにいたら、まともじゃいられなくなってしまうと思った。
自分の親が自分をどう思っているのか……そんなこと知りたくなかった。
いや、薄々は感づいていたのに、考えないようにしていたのだと思う。
特に、健二さんはそうだ。
あの人が働いて稼いだ金で生きているのに、俺はあの人に対して、そっけない態度しかとれない。
……良く思っているはずなんか、あるわけないよな。
部屋のノブをゆっくり回して、ドアを開く。
足を踏み入れようとしたが、異変に気付いて、動くことができなくなってしまった。
出てくる前は、床に何も置いていなかったはずだが、今は物が散らばっている。
嫌な予感がした……もちろんこの時点で、自分にとって喜ばしい出来事なはずがないと理解できているのだが、それでももっと悪くなるのではないかという考えがぬぐえない。
ドアを閉めて、床に落ちているものを、ゆっくりと確認する。
考えてしまっていることが、ただの悪い想像であるようにと祈りながら。
……しかし、予想は完全に的中していた。
床に落ちているもののほとんどは、部屋に隠していたエロ本とAVだった。
本棚やタンスの奥、布団の下など……母さんが部屋に入ってきても、絶対に見ないであろうところに隠していたものだ。
それが、部屋にばらまかれている。
本はページがちぎられているようで、歪に切り離された紙片が部屋にあちこちに落ちている。
……このことを、どうとらえてよいのかわからなかった。
ただ、淡々と、本とビデオを拾い集めた。
どうしてこうなったか……当たり前だが、自然にこんなことが起こるはずがない。
誰がやったのか……家にいる人間、つまり健二さんか咲子か母さんだろう。
……さっきの母さんの言葉や態度から考えると、俺に対して相当怒っていたことがわかる。
一番可能性が高いのは、母さんだろう。
怒っているのはわかる。
けど、どうして、こんなことまでされないといけないのだろう。
みんな、持ってるよな……?
俺が特別、異常なのか……エロ本を読んで、オナニーすることが、こんな風にさらし上げて責め立てなければいけないほど、おかしいことなのか……?
母さんが俺のことをどう思っているのか、さっき思い知らされたのに……まだまだ、あれだけでは済まないくらい、俺はあの人に嫌がられているんだろうな。
その事実だけで十分に打ちのめされるというのに、俺は……あの人のことをにくく思っている自分に気付いた。
心の中がぐしゃぐしゃになってしまいそうだった。
部屋を片付け終えて、ドアに鍵をかけた。
今日は夕飯もいらない。
部屋からずっとでないことにした。