廊下で、健二さんと鉢合わせた。
「由紀彦君、ただいま」
にこやかに声を掛けてくる。
スーツを着ているので、家に帰ってきたばかりなのだろう。
「おかえんなさい」
俺はトイレに行こうとしていただけなので、挨拶を返して健二さんのわきをすり抜けた。
「……ん?」
健二さんが顔を近づけてきて、鼻を鳴らす。
「なんすか」
健二さんは、にやっと笑った。
「ほどほどにしときなよ」
そう言って、俺の腹のあたりを、手のひらで軽く叩いて歩き去った。
……何時間も経ってるから抜けたかと思ったけど、まだにおうのか?
トイレに入る前に、洗面所にあるマウスウォッシュで口の中のにおいを落とした。

食事をすませたあと、母さんと健二さんと三人で、返ってきたテストについて話し合っていたときのことだ。
「あんたさ、指噛むクセ治しなよ」
「は?」
母さんが、呆れたような顔で言った。
「ほら、今噛んでるじゃない。やめなってば。みっともないから」
たしかに、俺は指を噛むことがある。
正確には、親指の爪を噛んでいる。
無意識にやっているというよりは、ふとした瞬間に気になりだして、そうなってくるとイライラしてくる。
爪を噛んだところで、気持ちいいわけじゃない。
しかし、気になりはじめたら、やらないと意識が指先に集中してしまう。
やりたくてやっているわけではないが、クセなんてのはだいたい、そんなものだろう。
それを、こんなふうに言われるとは思っていなかったので、面食らってしまう。
「……べつに、人に迷惑かけてるわけじゃないんだし。関係ないだろ、今は」
俺が爪を噛んでいたところで、誰かが不快な思いをするわけじゃない。
「屁理屈やめなさいよ。みっともないからやめなって言ってるの。あんた、赤ちゃんなの?」
俺が話を戻そうとしているのに、なおも母さんは俺のクセをやめさせたがっているようだ。
……母さんは機嫌が悪いと、こうして、細かいことにいちいち難癖をつけてくる。
「……自分だって酒飲んで帰ってきて、玄関で寝てるだろ」
「はぁ……。それとこれとは関係ないでしょ? 大人は毎日いろいろ大変なのよ。お酒に酔うことくらいみんなあるわよ。それに家に帰ってくるまで誰にも迷惑かけてないんだからさぁ。子どもが文句言わないでよ」
……なんだよ、その理屈。
「まぁ……大事なことなんだから、一度話を戻そうよ。それにクセなんて、すぐに治るものじゃないんだから」
健二さんが、母さんを諭すように背中を叩く。
「はぁ……。点数さぁ、前回より下がってるよね?」
「それは、今回は平均点も少し低いんだよ。みんな、難しかったって言ってる」
「やっぱり、塾行きなよ由紀彦。一人で勉強できるって言ってたから様子見てたけど、やっぱりどうにもならないじゃない」
「だから、塾はさ……」
「だからじゃないってば。半年後には受験なのよ? 人生かかってるのよ? あんたはそのこと、全然わかってないのよ」
「圭ちゃん、そんなに厳しい言い方しちゃだめだよ」
「健ちゃんみたいなゆるい言い方じゃ、この子には伝わんないの!」
健二さんの言葉は、火に油を注ぐことになってしまった。
「あんたね、ここでレベルの低い学校に行っちゃったら、これまで頑張ってきたことが全部台無しになっちゃうのよ?」
「人間てね、環境がほんとに大事なのよ。だからちょっとでも良い学校に入って、ちゃんと勉強のできる子たちと一緒にいることが大事なのよ」
……環境が大事っていうんだったら、この家は俺が勉強しやすい環境を作ってくれてるのかよ。
「……良い学校に入ることが全てだとは言わないよ。なにか目的があって、どこか入りたい学校があるんだったら、それがどんな道だとしても僕は応援したいと思ってるよ」
「けど、そうじゃないんだったら、できるだけ良い学校に進んだほうがいいよ。そのほうが、その先の苦労が少なくて済むんだよ」
母さんも健二さんも、言っていることは同じだ。
勉強しろ、良い学校に行け。
「とにかく、塾。それか、家庭教師。そうね……次のテストが月末にあるんだし、それに間に合うように始められたらちょうどいいじゃない」
「……今のままでも公立は狙えるんだから、行かなくてもいいよ」
塾も家庭教師も、高い金がかかる。
月謝を払う金で、いったい一か月に何本ゲームを買えるんだろう。
勉強なんてやろうと思えば一人でもやれることなのに、金を払うなんてばかばかしい。
「同じこと何回も言わせないでよ。狙えるって言ったって、絶対に受かるわけじゃないのよ。これから周りの子たちだって、どんどん追い上げてくるわよ?」
「勉強の時間増やすよ」
「増やすって、あんたねぇ……。毎日自分一人で続けるのがどんなに大変だかわかってるの? 家にいたらゲームやったり漫画読んだりしちゃうでしょ? だから塾とか家庭教師があるのよ」
……母さんの言っていることは、わからないわけじゃない。
けど、こうして一方的に責められ続けている状況に納得がいかない。
自分だって完璧じゃないのに、どうして俺には努力を強要するんだろう。
さっきの酒の話だって、言っていることが無茶苦茶だ。
子どもは、親の言うことには黙って従わないといけないっつうのかよ……。
「由紀彦君が悪い成績じゃないのは、ちゃんと頑張ってるからだって、僕はわかってるよ。けど、今頑張ってることは、ちゃんと結果につながってくるから」
「受験が終わっちゃえば、僕たちもこんなこと言わないからね? これから半年の頑張りで、どんな人生になるか決まってくるんだよ。だから塾でも家庭教師でも、由紀彦君のやりやすいものを……ね?」
「……でも」
「でもじゃないわよ! 本当に、なんなのよ……自分で頑張るっていうから、これまでは任せてたけど、これからはそうはいかないわよ。塾だって中途半端なところでやめるし、部活も生徒会もやってないんじゃ、内申点だって高くないのよ。わかってるの?」
「とにかく、塾に行くか、家庭教師に見てもらうか。家にいる時も勉強の時間増やすんだからね。わかった?」
「……」
「……わかってなくても、やらなきゃしょうがないのよ」
結局、俺に選択肢なんか無いんじゃないか。
立ち上がって、リビングを出る。
「ちゃんと返事しなさいよ。今日から勉強増やしなさいよ」
背中に母さんからの声が飛んでくる。
「……あぁ」
廊下に出ると、ドアのそばに咲子が立っていた。
「あ……」
俺に気付き、目を伏せる咲子。
ここで話を聞いてたのか?
まぁ、今日は母さんも久しぶりに機嫌が悪かったし、声も大きかったしな……。
こいつもこいつで、なんにも考えない年でもないし、思うところがあったのだろう。
俺がわきを通り過ぎて、自分の部屋のドアを開けても、咲子はそこで俯いたままだった。

8/ベンガルトラとウイスキー

土曜日の昼下がりの駅は、やはり平日とは比べ物にならないほど多くの人が歩いている。
ここから三十分ほど電車に乗れば県の真ん中の繁華街まで出られるし、さらに一時間も掛ければ東京まで行くこともできる。
駅を目指す人々は、どこへ行こうとしているのかはわからないが、暗い顔をしている人なんてほとんどいない。
きっとこのあとに、なにか楽しみにすることがあるのだろう。
俺たちも駅前で待ち合わせをしていたのだが、まだ高塔しか来ていないようだった。
「こんにちは」
「……あぁ」
今日は土曜日だ。
俺が近付いていくと、高塔はあいかわらずの表情で、頭を少しだけ下げて挨拶をした。
高塔の左腕には、絆創膏が貼られている。
昨日のことを思い出してしまうと、高塔の顔を直視できなかった。
冷静に考えてみると、昨日の俺は明らかに変だった。
酒を飲んでいたこともあるのだろうけど……あんなに高塔に突っかかる必要はなかったと思う。
なにが自分をあんなに駆り立てていたのか、よくわからない。
高塔が母親の言いなりで生きていることが気になるのは事実だ。
けれど、俺にそれを咎める権利なんてない。
それに、人がどんな生き方をするのがいいかなんて、俺にわかることじゃない。
それは俺には関係ないことだ。
どうして高塔のことをあんなに責めたのか……考えてはみるが、やはりよくわからなかった。
……よくわからないのに、あんなことをするなんて、最低の人間だよな。
白い腕に貼られた黄土色のテープから、繊維の部分が透けている。
それは血の滲んでいるようには見えない。
出血が止まっているのだとしたら、傷口はあまり深くなかったのだろう。
……もちろん傷が浅いからといって、自分のしたことの重さに変わりはないのだが。
「ん?」
俺が腕を見ていることに、高塔は気付いたようだ。
そして、左手を顔の近くまで持ち上げて、右手の親指で、絆創膏をなでた。
「痛いか?」
「痛くはない」
凹凸のほとんどないつるりとした高塔の腕にできた、不自然なふくらみ。
白い皮膚の下に、青っぽい血管がいくつか流れている。
高塔は、それを切り裂こうとしていた。
そこを見ていると、心の中が軋むような感覚が襲ってくる。
それになぜだか、高塔に昨日言われた言葉が頭の中に蘇ってくる。
『あなた自身が悲劇の主人公ぶってるからじゃないの?』
家に帰ってからも、今日の朝になってからも、何度も思い返していた言葉。
昨日、最も胸に深く突き刺さった言葉だったと思う。
あれだけ強く反応してしまったのは、的を射た言葉だったからなのだろうか。
……考えてみても答えなんて見つからなかった。
それに、自分がその傷を作らせたという罪悪感があるのだと思う。
謝ったところで俺の言ったことがなかったことになるわけではないし、今さら謝るのもなんだか変に思われそうで嫌だ。
……俺だけが悪かったわけでもないんだし。
それでものしかかっている罪悪感を解消する方法なんて、一つしか思いつかない。
「……なぁ、高塔」
高塔は相槌も打たず、俺の目をまっすぐに見つめ返してくる。
表情は変わらない。
今日ここで会ってから、まばたきをする時と、言葉を発する時以外にこいつは顔の筋肉を使っていないと思う。
こうして見据えられると、思っていることを言いにくいな……。
白い肌、黒いまつげ、茶色い瞳。
高塔がまばたきをすると、長いまつげが、一瞬だけ目の下に影を落とす。
感情を帯びているようには感じられない目だ。
昨日、一度だけ見せた険しいまなざしを思い出す。
なにを言われても何なに感じないやつだと思っていたが、まったく、そんなことはなかったのだ。
当たり前の話だが。
今、こんな目をしているということは、昨日のことはもう怒っていないのかもしれない。
やっぱり、今さら謝るなんて、変だよな……。
「なに?」
不意に高塔が声を出した。
「いや……」
完全に、謝るタイミングを逃してしまった。
……やっぱり、昨日謝らなかったことを、今日になって持ち出してくるのがそもそも不自然なのだ。
高塔もこの様子だと、きっと気になんてしていないのだろう。
それに、今日これからまた楽しいことをするのに、こんな気持ちを腹に抱えたままでいるのは良くない。
昨日のことなんて、忘れてしまうのが一番いいような気がしてきた。
「おーい、二人ともー!」
「あ」
ギンが大きく手を振りながらやってきた。
「ややっ! なんだよ由紀彦、やたら清子ちゃんに近付いてるじゃねーか。離れろ!」
ギンは、俺の身体を押して高塔から遠ざけた。
「別に近くねーだろ、うぜーな」
だいたい、近かったとしてもどうして引き離されないといけないんだ。
「うるさい! 土曜日だからって調子に乗るなよ! もう一歩くらい下がれ!」
指をさして命令してくるギン。
「うるせーのはおめーだよ! 下がらねーよ!」
「おっ!? おぉっ……」
俺が答える頃には、ギンの視線はすでに別の方へ向いていた。
「き、清子ちゃん……私服も、めっちゃかわいいね……」
目を見開きながらギンが言った。
高塔は襟のついた半そでの紺色のブラウスと、丈の長い白いスカートというシンプルなかっこうだった。
生地にはひとつのしわもなく、ぴんと張っている。
なんか私立に通うお嬢さんっぽい。
「完璧すぎる……こんなかわいい女の子と、土曜日に待ち合わせをして、電車に乗って出かけるなんて……そんな楽しいことしていいのか!?」
高塔をじっとりと視線で見つめるギン。
「していいのかって、お前が出かけようって言いだしたんだろ」
「これで由紀彦がいなければ、完全にデートなんだけどなぁ……」
「それはさせねーだろ。高塔と喋ってる時のお前、なんかキモいからな。二人っきりにはさせられねー」
「なんだよそれ!」
「いや、なんか知らないけど、めちゃくちゃキモいんだよ。なんつうか……童貞っぽい?」
「お前も童貞だろ! ふざけんなよ!」
「そうなんだけど。んなこといいから、とっとと行こうぜ」
「全然よくないけど……これからどこ行くの?」
「魚堀。電車で行く」
魚堀は、ここから電車で十五分ほどの場所にある駅だ。
ここからだと県の端へ向かうことになるので、常生よりもさびれている。
「魚堀って、なんもないとこじゃん。なにすんの?」
「動物園あるだろ。あそこに行くんだよ」
「動物園? あったっけ、そんなの」
「あるだろ。駅出て、山の方に歩いてくとあるだろ、公園とくっ付いてるやつ」
「えぇー、わかんないなぁ……清子ちゃん、知ってる?」
「知ってるよ。小学校の時に遠足で行った」
「そうそう、小学校の時に行かなかったか?」
「行ってないなぁ……ま、はじめてだけど、動物がいっぱいいるなら楽しいか!」
その発想もよくわからないけど、グズられるよりは全然マシか……。

「えぇぇーっ!? 由紀彦、ここ、小っちゃくね!?」
動物園のパンフレットを眺めながら、ギンが叫んだ。
ゲートの脇にある小屋で受付をしているおばさんが、じろりとこちらを睨みつけてくる。
「ばか、お前、声でけーよ」
「でも由紀彦、ここ、動物の数少ねーよ」
「そりゃお前、タダで入れる動物園なんだから、そんなにいっぱいいねーだろ」
「なんだよそれー。ゾウもパンダもゴリラもいない動物園なんて……」
……結局、なにかしら文句は言われるハメになるんだな。
「パンダ見てーなら、上野動物園行くか? こっから何時間もかかるし、電車代だって何千円も掛かるぞ。そのうえ入場料まで払わなくちゃいけねーんだぞ?」
「うぅ……パンダ……」
どうして隣町でパンダを見れると思ってたんだよ、こいつは。
日本にパンダなんて、そうそういねーぞ。
「あ、けど、レッサーパンダがいるって書いてある! レッサーパンダって、パンダなんだよね!?」
ギンは目を輝かせながら、パンフレットを高塔に向けて指さした。
「たしかパンダと同じで、中国の生きものだよ」
「おおーっ! じゃあもうそれパンダってことじゃん! レッサーパンダのとこ行こう!」
高塔の手を取って、走り出そうとするギン。
「いや、入り口から順番に見て行かないと、無駄にぐるぐる回ることになるだろ!」
「えー、けど、レッサーが……」
「別に逃げやしねーだろ。とりあえず入口の近くから見てくほうがいいだろ」

入口のすぐそばにあった、鳥を集めたコーナーにきた。
檻の中にはところどころに木々が植えられていて、天井の近くには鳥がとまるためのパイプが通っている。
コンクリートの床には凹凸があり、水溜りができている。
そこに入れられている鳥たちは、ふだん街中で目にするやつらとは違い、それなりに大きな鳥ばかりだった。
色とりどりの鳥たちは思い思いの場所にいて、そこでじっと動かずにいた。
「えーとなになに……ショウジョウトキ?」
「あぁ、赤いな。めっちゃ赤いな」
「なぁ……由紀彦」
「なんだ?」
「こいつらさ、この水溜りで水飲んでるよな」
鳥たちのうち何羽かが、コンクリートの上に溜まった水にくちばしを突っ込んで、かぱかぱと開閉させている。
鳥の行動に詳しくはないが、まぁ、飲んでいるのだろう。
「あぁ、飲んでるな」
「水溜りの中にさ、フンが入ってるよな」
「……そうだな、入ってるな」
言ってるそばから、パイプにとまっていた鳥が、ケツからフンを落として水溜りの中に白い汚れをまき散らした。
「こいつら、自分のウンコ飲んでるの……?」
「まぁ、そうなるよな」
「……俺、鳥にだけは生まれ変わりたくないなぁ……」
しみじみとギンがつぶやく。
俺も、生まれ変わるならまた人間がいいと思った。
できればもっと恵まれた環境に生まれたい。
「……」
高塔は何も言わずに、鳥たちをじーっと見ている。

小動物コーナーの前にやってきた。
「全然動かないね、こいつら」
ギンの言う通りで、厚めのガラスの向こうにいる三匹のタヌキたちは、身体をくっつけながら丸まっていて、まったく動く気配がない。
サービス精神がいいとは言いがたいやつらである。
「タヌキなんて、なんで動物園で飼ってんだろうな」
「『県内で保護された三匹を飼育しています』って書いてあるよ」
高塔が、ガラスの上の方を指さしながら言う。
そこにはタヌキの生態の解説と、高塔の言う通り、ここにいるタヌキが保護された動物だと書かれていた。
「えーっ! この中の一匹、常生で捕まえたって書いてある!」
「ほんとだな」
「常生にタヌキなんているの!? すごいなー。おーい、常生のタヌキ! 俺も常生から来たんだよ!」
ガラスをばむばむと叩くギン。
「おい、ばかやめろ! ガラスは叩くなって書いてあるだろ」
注意書きを指さしながら、ギンをガラスから引き離す。
「えー、だって地元が一緒のやつがいるんだよ。向こうだって喜ぶっしょ」
口をとがらせてブーたれてくる。
しかしタヌキの方はこんなことには慣れてるのか、ぴくりとも動かなかった。
「ほら、タヌキも別にどうでもいいってよ」
タヌキの隣の檻では、ニホンアナグマが飼われていた。
が……。
「……クマ、どこにいるの?」
「さぁ……ぱっと見、どこにもいないっぽいな」
檻の中は雑木林を模しているのか、草木が茂っていたり、中がくり抜かれた倒木が置かれている。
アナグマの姿は見当たらないので、どこかに隠れているのかもしれない。
「もー、なんだよ由紀彦! 面白い動物いないじゃん!」
「お前な、入り口の近くにいきなり人気の動物置くわけねーだろ。ちょっと奥まで行かないと良い動物はいねーって、そりゃ」
「そういうもんかねぇ……」
ギンはぶすっとした表情で、檻の中に視線を巡らせていた。
……子どもの頃に来た時は、もっと興奮した記憶があるんだけどな。
俺の感性が変わってしまったのだろうか……正直、あまり面白いとは感じられずにいた。
「木の中で寝てるみたいだよ」
しゃがみ込んで檻の中を観察していた高塔が言う。
「え、ほんと? ……あ、いた。よく見つけられたね清子ちゃん」
ギンの言葉に、高塔はゆっくりと頷いた。
覗き込んでみると、薄暗い空洞の中に、もさもさしたものが見えた。
まぁ、アナグマはアナグマで、自分の居心地のいい場所で過ごしたいよな。

「おおおーっ! これがレッサー!?」
「そうみたいだな」
レッサーパンダはガラスにも檻にも囲われていなかった。
代わりに俺の腹ぐらいの高さのコンクリートの囲いがあり、その向こうには1メートルほどの深さのある堀があり、そのさらに向こうにやつらが動き回る場所があった。
こいつらは、森の木の上を移動する生きものなのか、パイプで支えられて斜めに立っている丸太がいくつか置いてあった。
レッサーパンダは二匹いるが、どちらも丸太を上ったり下りたり、地面を歩いたりしていて、人間には関心を示していなかった。
レッサーパンダは人気があるのか他の動物よりも広めのスペースを与えられていた。
まぁ、当の動物にしてみれば、これでも狭すぎるのだろうが。
「すげー! かわいいなこいつら! めっちゃ茶色いぞ! アムラーなのかな!」
「安室奈美恵が生まれる前からこいつらは茶色いだろ」
ていうか、アムラーって言葉、完全に死語だろ……。
「じゃ、こいつはアンナ、こっちはミーナって呼ぼうぜ」
「スーパーモンキーズのことは忘れろ!」
しかし、レッサーパンダは確かにかわいかった。
丸い顔につぶらな瞳、そしてふわふわしていて大きな耳。
白と茶色とこげ茶色の毛が、なんか良い感じのバランスできれいな模様になっている。
そして体は小さいのに、やたらと手が大きく、のしのしと歩くところもなんだかかわいく見える。
高塔は囲いのコンクリートに手をついて、動いて回っているレッサーパンダをじっと目で追っていた。
「清子ちゃん、レッサーパンダ気に入った?」
「……どうかな。わからない」
「ずっと見てるよね」
「この子たち、なにを考えてるのかなって」
「なにをって……腹減ったとか、眠いとか、交尾したいとかじゃねーの? 動物なんだし」
欲求の素直に生きるもんだろ、動物ってのは。
「お腹が減ってるから、うろうろしてるの?」
「餌探してるんじゃねーか?」
「……そうなのかな」
高塔が目で追っていたレッサーパンダが、丸太を上ってきた。
先の方まで歩いてくると、そこに尻を落ち着けて、あたりをゆっくりと見回す。
すると、高塔の方を見て、少しだけ動きを止めた。
しかしすぐに尻を上げて、また彷徨いはじめる。
まぁ、どう考えても、動物たちが入れられてるこのスペースは狭いだろう。
こいつらの先祖は行動範囲の制限なんてされないで、いつでも好きな時に好きな所へ行って過ごしてきただろう。
何世代もそうして生きてきたのに、こいつらはこんなに狭いところに閉じ込められている。
餌だって決まった時間にしか食べられないし、自分たちが眠りたい時にもぎゃーぎゃー大きな声を出すやつらに囲まれている……考えただけでもひどい環境だな。

ライオンの檻の前に来たのだが……。
「おい、なんでそんなところにいるんだよ」
俺と高塔は手すりの前にいるのだが、ギンは少し離れたところで、道に植えられた木の陰に隠れるように立っている。
そこからちらちらと、こちらの様子をうかがっている。
「いや……やばいって、そいつ……これ以上は無理だわ」
「無理ってなんだよ」
「これ以上近付いたら、食われるって」
額に汗を浮かべながら、一瞬だけライオンのほうに目を向けるギン。
ライオンはと言えば、だらりと寝転がっていて、ふさふさしたたてがみを顔で押しつぶしている。
しかし、目だけをきょろきょろ動かして辺りを見回している辺り、たるみきっているわけではなさそうだ。
「何言ってんだよお前、檻あるだろ。柵、こんなにぶっといんだから、こっちに来れるわけねーだろ」
それに生垣があるので、手を伸ばしても檻には届かない程度には離れているのだ。
「ほら、もっと近くに行けよ」
俺はギンのもとへ行き、両手で背中を押し出した。
「や、やめろってほんと! マジでやばいってあいつ! ちょ、ほんとにやめろよ!」
ギンがばたばたと抵抗しながら、大きな声を上げる。
すると、ライオンが耳をピクッと立てた。
「おい、お前が大声出すからライオンが反応してるぞ」
「マジで勘弁してよ、俺、まだ死にたくないよ……」
ギンは少しだけしおらしくなったが、ライオンは瞳の焦点をこいつに合わせて、むくりと起き上がり、『待て』の体勢になった。
「お前な、ここで男らしいとこ見せないと、高塔にも舐められるだろ」
「うぐ……た、確かに……」
「ちゃんと檻の前まで行って、ビビってねーってこと証明しとけよ」
ギンは自分の足で前に進み始め、錆びて塗装の剥がれた手すりに緩く手を添えている高塔の隣まで行った。
「清子ちゃん……ラ、ライオンだね」
「うん」
ライオンは、べっこう飴のような色をした目を真っ直ぐギンに向けている。
「うっ……清子ちゃんは、ライオン怖くないの?」
「どうして怖いの?」
「え……だ、だって、人間を食うんだよこいつら」
「……それが怖いんだったら、人間も怖いと思うよ」
こいつら、二人で並べておくと、全然会話がかみ合わないような気がするぞ……。
と、ライオンが突然大きく口を開いた。
「ギャーーーー!!」
ギンは高塔を抱きかかえると、俺のところまで大股で飛んできた。
「やべーじゃんやっぱり! どうしてくれんだよ由紀彦!」
俺の服を掴んで、
「どうするも何もお前……。あくびしてるだけじゃねーかよ」
「……は?」
ライオンのあくびはやたらと長く、ギンが振り向いた時もまだ終わっていなかった。
人の頭がすっぽり入ってしまいそうなくらいに大きく開けられた口から、俺の親指ほどの太さの牙が覗いている。
まぁ、近くでいきなりあれを見せられたら、ビビるのもわからなくはない。
ライオンはあくびが終わると、ピンク色の大きな舌で鼻をべろりと舐めた。
こういう仕草を見ると、でっかい猫に思えてくるな。
「いや、無理だよあんなの……絶対勝てるわけねーって!」
「勝てるか勝てないかなんて、考える必要あるか?」
「だめだなこりゃ、インドライオン……。インド人も、よくあんなのが住んでる国で暮らせるよな。そりゃ、火ぃ吹いたり、テレポートしたりできるようになるのも納得だな」
「いや、ありゃゲームだからな……?」
「え!? ヨガやってたら、ああいうのできるようになるんじゃないの?」
……その理屈だったら、俺たちは手からエネルギーの弾を打てることになるけどな。
「ていうか、高塔のこと下ろしてやれよ」
「ん?」
ギンは自分の脇に抱え込んだ高塔に目をやる。
高塔は少し動揺しているのか、目をきょとんと見開いている。
「あっ! ごめん清子ちゃん」
高塔をその場に下ろすギン。
高塔は服にできたしわを少し伸ばして、ギンに向き直る。
「ありがとう」
「全然いいよ。危なかったね清子ちゃん、もう少しで食べられちゃうところだったね!」
「いや、食べないけどな……」
……礼の言えるやつなんだな。

トラの檻の前にきた。
「……トラは平気なのかよ」
ギンはなんでもないような顔で、檻の前の手すりから身を乗り出していた。
「なんかこいつら顔小っちゃいし、いーんでない?」
「野生動物みたいな判断基準だな」
確かに、ライオンと比べると、虎は顔が小さいように見える。
あっちはたてがみもあるってことを加味しても、顔そのものの大きさが違うような気がする。
しかし、まったりと寝転んでいたライオンとは違い、虎は狭い檻の中をせわしなく歩き回っている。
今俺たちの目の前にあるのは、コンクリートの壁で仕切りが作られている一つの大きな檻だ。
中は三つのスペースに分けられていて、左にベンガルトラ、真ん中と右にツキノワグマがいる。
虎にしてみたら、こんな近くに同じくらいの強さの動物が二匹もいるとなったら落ち着かないだろう。
隣のスペースの熊は、ボールに抱き付いてごろごろ転がっていて、どこかのほほんとした様子だ。
それに、どう考えても狭い。
スペースに端から端まで、トラが十歩ほど歩いたら横断してしまうほどの大きさだ。
申し訳程度に、木で作られたロフトのようなスペースとスロープがあるのだが、一度もそこには足を踏み入れてはいない。
コンクリートの床の上を、あてどなくうろうろしている。
その顔は、心なしかライオンよりも険しいような気がする。
……まぁ、単純に白と黒と茶の模様のせいでそう見えるだけかもしれないけど。
「あれ? 清子ちゃん、どうしてそんなところにいるの?」
見てみると、高塔は檻から少し離れたところに立ってトラを眺めていた。
これまでは手すりのところまで来て観察していたはずだが……。
「おしっこ飛ばすって書いてあるから、離れてるの」
高塔は檻の上の方を指さした。
そこには、確かに、『トラはおしっこを飛ばすことがあります。ご注意ください』と書いてあった。
……退屈な生態解説かと思って無視してたが、そんな大事なことが書いてあったのか。
俺も、二、三歩下がることにした。
「お、なんだよ由紀彦! ビビってるのかよ! 男らしくねーなおい!」
「……てめぇ、さっきのことはもう忘れたってのか?」
「過去なんてどうでもいいだろ! 大事なのは今よ、今」
ギンは俺の方を振り返っているが、その向こうで、トラが足を止めた。
「あ」
高塔が危険を察知して声を出した。
「ん?」
ギンが顔を正面に向けると、トラが尻尾を天井に向けてピンと立てた。
「うはは、尻の穴丸見えだぜ由紀彦!」
ギンはトラを指さして笑い声を上げた。
そして、トラの尻尾の付け根の辺りから、液体がほとばしった。
「ウギャー!」
それは直線的には飛ばず、散弾銃のようにばらばらに放たれた。
ギンは叫びながら、大きくその場から飛びのく。
液体はほんの一瞬放出されただけで、トラは尻尾を下ろすと何事もなかったかのようにまた歩き始めた。
しばらく危険は訪れないだろうと思い、濡れた場所がないか体のあちこちを確認しているギンのもとへ歩み寄った。
「おい、どうだ? かかったか?」
「いや、多分大丈夫だと思う……」
「ちっ。けど、お前めっちゃ手すり触ってたよな。手すりにもかかってるだろうし、もうアウトみたいなもんだろ。ざまーみろ」
「……」
ギンは自分の掌を見つめる。
「うえーい」
そして俺の方に近付けてきた。
「調子に乗んな! とっとと洗ってこい」
ギンの腕を掴んでひねりあげる。
「い、痛い! 助けて! 清子ちゃん助けて!」
高塔はすでに熊の檻の前に移動していて、ギンの声が聞こえていないようだった。

「ふれあいコーナー?」
そこは低いフェンスで囲われていて、中はたくさんの人でにぎわっていた。
見ていると、小さい子どもと、その親であろう大人がほとんどだ。
「あぁ、そういえばこんなとこあったな……。小さい動物にさわれるんだよ」
「なんだそういうことか。こんなところで、ふれあいサービスなんてしちゃっていいのって思ったよね」
「心けがれすぎてるだろお前」
あまり上手とは言えないねずみとひよこのイラストで飾り付けられた入口を通り、俺たちは中へと入った。
天井が透明なので、陽の光が注いでいて空気がとても暖かかった。
その天井を支える柱の間に細い紐が通してあり、そこに三角形の色紙が垂れ下がっていた。
色紙は緑、青、赤の三種類で、それらが紐の端から端まで順番に配列されている。
「おお! でっかいハムスターがいるぞ!」
ギンが指さしたところには俺のへそに届くくらいの木の台があり、子どもたちがそこに群がっている。
「いや、あれはモルモットだろ」
「あっちにはヒヨコだ!」
黄色くてふわふわしてて、ピヨピヨ言ってる小さな生き物がたくさんいた。
「あの白いのってねずみか!? すげーなここ!」
ギンは早足で、一番近くにあったモルモットの台のほうへ行ってしまった。
「落ち着かねーやつだな、ほんと。……ん?」
高塔がいなかった。
見回してみると、あいつはまだ入り口の向こう側に立っていた。
その表情は、どこかこわばっているように見える。
いつも無表情なやつだが、なんだか緊張しているような……そんな感じだった。
ギンはそんな高塔には気付かずに、動物に夢中になっている。
「しょうがねぇな……」
俺は入口の近くまで戻って、フェンス越しに高塔に声を掛けた。
「お前、なんで入ってこないの?」
高塔は近くで見ると、唇をきゅっと結んで少し不安そうな目をしていた。
「ん……。私、動物にさわったことがないの」
「は? 今までずっと?」
「そう」
「猫とか犬とか虫とか、どっかでさわる機会あるだろ普通」
「お母さんが、動物は汚いからさわったらだめだって」
「んなこと言ったってお前、野良猫とかならまだわかるけどよ……」
ペット飼ってる友だちの家に行った時とかどうするんだ……と言おうと思って、とどまった。
昔から友だちがいなかったのかもしれない。
「……どうすんの? ここの動物は別に汚くねーと思うけど」
それに、すぐそこには泡せっけんがたくさん置かれた水道がある。
汚れちまったとしても、すぐに洗えばいいことだろう。
「うん……」
高塔はひよこのイラストに目をやりながら、小さく体をゆらした。
こいつが動物を嫌いなわけじゃないってことは、これまでの様子を見てればそれなりにわかる。
さわりたいのか、さわりたくないのかは、わからない。
けど、汚いからさわるなって言われて、これまで言いなりになってたこいつは、いったいなんなんだろう。
「……お前は、さわりたいの?」
「……わからないよ」
「じゃあ、まずはここに来いよ。近くまで行って、自分で見て、さわるかどうか決めりゃいい」
高塔は少し考えていたようだが、やがて顔を上げた。
「わかった」
目にはまだ不安そうな色が見えたが、入り口をくぐってこっちに歩いてきた。
「じゃあ、とりあえずギンのとこ行こう」
「うん」
ギンは子どもたちに交じって、モルモットを撫でていた。
ハムスターの三、四倍くらいの大きさがあり、両手を合わせても少しはみ出るくらいはありそうだった。
「二人ともなにやってんの、遅いよ! 俺が一番かわいい子取っちゃったからね」
「一番かわいい子って、お前……」
たしかに、モルモットはそれぞれ毛の色や模様が違った。
毛は白と黒と茶色しかないが、どこの部分がどの色になっているのかが、よく見ると全然違う。
高塔は俺の斜め後ろに立って、モルモットの台に視線を落としている。
ギンはと言えば、柵に沿って並んでいるベンチに座って、モルモットとじゃれている。
「……さわるか?」
「……」
返事はなかった。
どうしたもんか……。
「じゃあ、そっちで座ってるか? 俺が一匹連れてくから、さわりたかったらさわりゃいい」
高塔は頷いて、ベンチのほうへ歩いていった。
俺は、おとなしそうにしてるモルモットを見つけて、抱き上げた。
白と茶色の二色の毛が混ざり合っていて、他のやつらと比べると茶色の部分が広い。
俺が捕まえても、まったく抵抗しなかった。
モルモットの腹はとても柔らかく、持ち上げようとすると手に合せて形を変えた。
高塔が待つベンチの方へ行こうとして、ふと注意書きがあることに気付く。
『モルモットをなでる時はこのマットを膝に敷いて、その上に乗せてあげてください』
と、台の横にプラスチックのケースが備え付けられていて、そこに四角い小さな布のマットが入っていた。
周りを見てみると、他の人たちはみんなそのマットにモルモットを乗せていた。
俺はマットを二枚取っていって、ギンに一枚渡した。
「これ、使えってよ」
「えー、こいつら大人しいし、別に使わないでもいーんでない?」
視界の隅に、ツナギを着た若い係員が歩いてくるのが見えた。
「……ズボンにションベンとかされても、知らねーぞ」
「うっ……そ、そうだな、マット使おうかな」
ギンは俺の手からマットを一枚受け取った。
係員はにこにこしながら、俺たちのそばを通り過ぎていった。
俺は高塔の座っている隣に腰を下ろした。
マットを敷いて、そこにモルモットを乗せてやる。
「ほれ」
「……」
「……なんかお前、ここに来てから一段と喋らなくなったな」
その言葉にも答えない高塔。
待っていてもしかたがないので、俺の方からモルモットにさわることにした。
「おお、なんか、毛が固いなこいつ」
腹がやわらかいから、毛もそうだと思い込んでいた。
毛の流れに逆らって手を動かすと、毛がちくちくと皮膚をつっついてくる。
薄べったい耳がぴこぴこ動いているので、人差し指の腹で軽くふれてみる。
体の大きさのわりに、耳がやたらと小さいような気がするな。
モルモットは、黒くてうるうるした目を俺の方へ向けてくる。
ぴんと伸びたひげと、ひくひくと絶え間なく動く小さな鼻。
……いかにも愛玩動物と言った感じで、たしかにこれはかわいい。
さわっていると暖かくて、なんだか癒されるような感じがする。
ずっとさわってりゃ飽きるのかもしれないけど、これをさわりたくないってのも、なんだかよくわからないな。
高塔は俺の方に体を寄せて、モルモットをじっと見つめている。
……まぁ、さっきよりは近づけるようになってるんだし、慣れてきたってことなのか?
つかの間、高塔のほうに目を向けていたら、モルモットの目の前に置いていた指に小さな刺激が走った。
「あ、こいつ噛んでる」
「えっ?」
どうやら、モルモットがかじっているらしい。
俺のことを餌だと思ってるのだろうか。
「……大丈夫なの?」
高塔が、俺から少し離れながら言った。
「あぁ、全然痛くないよ」
身体が大きいので力もそれなりに強いかと思ったが、痛みはほとんどなかった。
とは言え、高塔はモルモットに警戒心を持ってしまったようだ。
『きゅっきゅっ』とモルモットが小さな声で鳴き出したので、台の上に戻してやることにした。

台の上には、すさまじい数のねずみがいた。
ハツカネズミなので、そもそも数が小さいのだが、こんなに多くのねずみが重なりながらひしめきあっている図というのもちょっと異様ではある。
このうち八割くらいが真っ白な毛をしていて、二割くらいが黒に近い茶色の毛をしているが、白の方が多くてよかった。
焼けたドーナツのような色をしたねずみの方が数が多かったら、なんというか……あまり見栄えがよくないような気がした。
高塔は台の近くで屈んで、低い位置からねずみを観察していた。
そしてギンはと言えば、高塔のことなんて忘れてしまったかのように、早速茶色いねずみをてのひらに乗せてはしゃいでいた。
「軽っ! こいつらめっちゃ軽いぞ! なんも重さ感じない!」
ねずみはギンの手の上をちょろちょろを動き回っている。
全然警戒心ないんだな。
「……とりあえず、手に乗せなくてもいいし、台の上にいるやつをさわればいいんじゃねーか?」
「うん……」
「こっちは噛まねーと思うけどな」
群れを離れて台の上を歩き回ってる白ねずみを捕まえて、手の上に乗せてみる。
鼻の前に指をぶらつかせても、そいつはひと嗅ぎしただけで、特に興味を示さなかった。
「ほら、大丈夫だぞ。多分」
まぁ、あくまで、多分でしかないけど。
「うおー、すげえ! こいつ、めっちゃ上ってくるぞ」
ねずみはギンのひじの辺りまで上がってきていた。
そういえばこいつら、よっぽどのことがないと落っこちたりしないらしいな。
バランス感覚がめちゃくちゃいいんだとか。
ギンは腕を広げて、くるくると回りだした。
「あはははは。ユパさまおねがいこの子わたしに下さいな」
ネズミはギンの二の腕のあたりにしっかりとしがみついている。
「デブナウシカすぎるだろ。メーヴェ飛べねーわ」
ギンは俺の言葉が聞こえていないらしく、そのままくるくると回り続けている。
俺が捕まえたねずみも、手の上にいるのが飽きたのか、腕に上がってくるようになった。
反対の手でそれを遮ると、今度はその手によじ登ってくる。
また腕の方へ進むので、最初に乗せていた手を差し出すと、そちらにやって来る……。
ねずみは歩くのが好きなんだな。
餌のにおいにつられてるわけでもなく、ただ延々と歩き続ける。
ハムスターなんかも、回し車でずーっと走ってるしな。
……こいつらはこいつらで、俺にはわかんないことで一生懸命やってんだな。
「うげー……目ぇ回った……気持ちわり……」
ギンはテトを台に戻すと、よろめきながらベンチの方へ歩いていった。
「きゃっ……」
高塔が小さくうめいた。
「どうした?」
見てみると、高塔の腕を三匹のねずみが上っていた。
「ね、ねずみをさわろうとしたら、上ってきちゃった」
どうやらこいつは、ねずみの群れに手を伸ばしてしまったらしい。
俺はこうなりたくなかったから、群れから離れたやつを選んだのだが……。
「とりあえず、台に戻してやれよ」
俺は自分の腕を歩き回るねずみをつまんで、台に戻した。
「そうなんだけど……」
なにやら体をもじもじさせながら答える高塔。
高塔はねずみを捕まえようとするが、指の間をすり抜けられてしまう。
「お前、もっとちゃんと掴まないと逃げられるぞ」
「けど、小さいから……」
あぁ、力加減がわからないのか。
さわったことがないんなら、しょうがないか……。
「ちょっと掴んだくらいで死にゃしねーよ」
「でも……」
体をよじりながら、何度もねずみに逃げられる高塔。
このままだとこいつは、一生ねずみの遊び場にされちまうぞ。
なんかじれったいな……。
「取ってやろうか?」
「……お願い。くすぐったいの」
許しが出たので、高塔の腕の上を駆け回るねずみを捕まえる。
難なく三匹のねずみを捕まえて、台の上に返してやった。
高塔の腕は細いので、もともとねずみが動ける範囲は狭いのだ。
十秒もかからずに、三匹のねずみを取り除き終えた。
「ほら、終わったぞ」
「あの……ま、まだ」
「え? もういないだろ」
俺が高塔の方を振り向いた時から、ねずみは三匹しかいなかったはずだが……。
と思っていたら、高塔の頭に上に、ねずみがひょっこり顔を出した。
「こ、この子が最後」
高塔は両手の人差し指で、頭にてっぺんに立つねずみを指した。
「ぶ……」
なんか、そのポーズと、頭の上にねずみが乗っているっていう絵が……。
「あっはっはっはっは!」
妙にツボにはまってしまった。
「え、えぇ……?」
高塔はまゆをへの字に曲げて、俺を見てくる。
自分でねずみを捕まえようとするが、動きを見れないということもあってか、その手は空振りを繰り返している。
その姿もまた、どうにも面白い。
「ひー……。もうだめだ……腹痛ぇ」
目の端に浮いてきた涙を手で拭った。
そんなことをしてるうちに、ねずみは高塔の髪の毛を伝って頭から下りてしまった。
「あ、もう、また……」
そして髪の毛に紛れて、見えなくなった。
「う……く、くすぐったい」
ふたたび、体をくねらせる高塔。
そうか、さっきからもじもじしてたのは、こいつのせいだったのか。
「あー、しょうがねぇな」
目を細めてくすぐったさに耐えている高塔の姿もけっこう面白かったが、これ以上ほっとくのもかわいそうなので、助けてやるか。
ねずみを見つけるためには、高塔の長い髪は邪魔だったので、手でまとめて持ち上げることにした。
髪は軽くてやわらかく、するすると簡単に俺の手に収まっていった。
そして手で輪を作って、強く引っ張ってしまわないように頭のあたりまで持ち上げた。
「あ、いた」
ねずみは、あらわになった肩と首の間の辺りでちょこちょこ動いていた。
空いている手を伸ばして、ねずみの胸のあたりをつまむ。
ねずみの手が高塔の肌をひっかかないように、ゆっくりと引き離した。
「うー……」
用が済んだので、手で作った輪っかを解くと、髪はさらさらとこぼれていった。

「ほら、取ったぞ。すばしっこいから気を付けろよ」
しぶとかったねずみを、台の上の戻そうと手を伸ばす。
「あ……さわりたい」
高塔がねずみのほうに両手を差し出した。
「え? あぁ……ほら」
高塔の手の上に、ねずみを下ろしてやる。
「わぁ……軽いね」
「そうだな」
「あったかい……。体がとことこ鳴ってる」
確かめるように、ねずみの体に触れる高塔。
医者が患者の病気を探り当てようとして慎重に触診するようだ。
ねずみのほうも、さっきよりは落ち着いているように見えた。
「ふー……やっと復活したぜ」
ギンがやってきた。
「なんか楽しそうだな、由紀彦」
「え? なにがだよ」
「さっきめっちゃ笑ってたじゃん。お前が笑ってるの、久しぶりに見たよ」
「……」
咲子といい、こいつといい、どうして人が楽しいかどうかを気にするんだよ。
「楽しいなー、由紀彦」
「……あぁ。そうだな」

9/オレンジトレイン

帰りの電車はがらがらだった。
下りの電車は、県の中央の栄えている駅から帰ってくる人をたくさん運んでいるが、この時間に魚掘から上りの電車を使う人はかなり少ないようだ。
「はー、なんだかんだで歩きっぱなしだったから、めっちゃ疲れたなー」
ギンは横並びの座席の一番端にどっかりと腰を下ろした。
ギンの隣を一つ空けて、俺も座った。
「あれ? 清子ちゃん、座らないの?」
「私はいい」
「別に立ってる人もいないし、遠慮することないだろ」
「……座ってると、眠っちゃうから」
「えー。常生まで十五分もかからないんだよ? 大丈夫でない?」
「すぐに寝ちゃうから」
「別に、寝ちまっても起こすっつうの。立ってる理由がないだろ」
「……わかった」
俺とギンの間の席に高塔も座った。
ホームのスピーカーから何の感情も起こらないようなメロディが流れ、無機質な男の声がドアが閉まることを告げる。
空気の抜けるような音と共にドアが閉じられ、電車がゆっくりと動き始めた。
高塔はいつものことだったが、俺もギンも特に何も話さなかった。
他の乗客たちも、おたがいに距離を置いて座っているような気がする。
一人でいる人も多いし、二人連れの人たちも言葉を発さない。
車内には、電車の揺れる音だけが淡々と規則的に響いていた。
窓から差し込んでくる夕日が電車の中を茜色に染め上げて、どこか不思議な空間を作っている。
「……ん」
高塔の頭が小さく傾いてきたが、声とともに姿勢を正した。
見ると、高塔はすでに降りてくるまぶたと闘っているようだった。
「清子ちゃん、もう眠くなったの?」
「うん……」
答える声も、いつもよりか細いように聞こえる。
「まだ電車が出てから、三分も経ってないぞ」
「乗り物に乗ってると、こうなっちゃうの。特に電車が走る音を聞いてると……」
言いながら、また体が徐々に横に倒れていく。
こりゃ、もうだめだな……。
「眠いんだったら、無理すんなよ」
「けど……」
「そんな風にぐらぐら動いてるほうが気になる」
「……ありがとう」
そう答えると、高塔は頭を後ろのガラスにくっつけて、目をつむった。
あと十分もしたら常生に着くことを考えると眠くはならなかったが、少し気が抜けたような感覚ではある。
普段行かない場所に来たせいで頭がいろいろと刺激を受けて疲れているのか、今日はなんだかいつもより考え事をしなくてすんでいる。
受験のことだとか、家のことだとか、将来のことだとか、自分のことだとか。
こうしてぼんやりと、時間が流れていくのに身を任せるなんて、久しぶりだな……。
ずっとこんなところにいられたらいいと思う。
……優しい時間だ。
そんなことを考えていると、高塔がずるずると体勢を崩して、ついには頭が俺の肩にぶつかった。
丁度いい具合にバランスが取れたのか、そのまま動かなくなった。
「あーっ。ずるいぞ由紀彦……!」
「いや、別にずるくは……」
「清子ちゃん、俺のほうが絶対に寝やすいよ!」
そう言って、高塔の腕を引っ張ろうとするギン。
「ん……」
高塔のまぶたがびくっと動いた。
「おい、寝かせといてやれよ」
「むぐぐ……ちくしょう……!」
ギンが、とんでもなく怒りをこめた目でにらみつけてくる。
「しょうがねーだろ……」
とは言え、高塔から香るせっけんの清潔なにおいは悪い気がしなかった。
高塔の髪はまっすぐ下に流れていて、俺の腕にやわやわとふれている。
それをよけるために腕を動かすと高塔のことを起こしてしまいそうなので、くすぐられ続けるしかなかった。
呼吸に合わせて静かに胸が上下していた。
卵のように形のいい小さな頭。
高塔の体温がぼんやりと伝わってくる。
……AVとかグラビアに出てる女とは違うけど、こいつもこいつで女なんだよな。
そんなことを、ぼんやりと思った。
「こっちへ……こっちへ来るんだ清子ちゃん……こっちへ……!」
その高塔の向こうで、フォースの力でも使おうとしているのか、動く招き猫のように手をこまねいている。
「……そんなに羨ましいなら、高塔を端に座らせて、その隣にお前が座れば良かったんだよ」
「どーして先にそれを言ってくれねーんだよ!」
「いや、こんなことになるなんて、先読みできねーだろ普通」
「……由紀彦はもうちょっと、俺にやさしくてもいいと思うぜ」
そんな話をしていると、電車が急に速度を落としはじめた。
まだ常生の駅まではだいぶ距離のあるので、こんなところから減速する必要はないはずだ。
飛んでいくように流れていた窓の外の風景は、やがて完全に止まってしまった。
神羽川をまたぐ橋の上だった。
「あれ? どうしたんだろ」
すると、人身事故が発生したことを告げるアナウンスが流れた。
しばらくここで停車するらしく、いつ動き出すかもわからないらしい。
アナウンスはお決まりの謝罪の言葉で締めくくられ、乗客のうち何人かが大きなため息をつくと、車内に静寂が戻ってきた。
「人身事故かぁ……」
ギンがつぶやく。
……多分、自殺した人がいるってことだよな。
「たしか人身事故ってさ、起こした人か遺族の人たちが、すげー慰謝料請求されるんだよね?」
「あぁ……そういう話は聞いたことあるよな」
「いくらぐらい取られるのかな」
「どんぐらいなんだろうな。事故の規模で違ってきそうだよな」
黙っているのもなんとなくやりづらかったので、ギンの話に乗っかることにした。
「やっぱ、一億ぐらい取られるのかな?」
「一億か……まぁ、ひどい事故だとそんぐらいいくんじゃねーか? 電車がへこんだり、掃除しなきゃいけなかったりとか、すげー長い時間動かせなくなったりとかすると」
「電車ってへこむことあるの?」
「そりゃあるだろ。人身事故じゃなくて、車との事故だった場合なら電車も壊れたりするんじゃねーの」
「あぁ、そうか……。弁償は抜きで、慰謝料だけだといくらぐらいなんだろうな」
「想像つかねーよな。小学校の頃、同級生が線路に入って電車止めたってことがあったけど、どうなったんだろあいつら。聞いときゃよかったな」
「なんでそんなことになったの?」
「ボールが線路に入ったらしいけど、そん時は逃げたんだってよ、そいつら。で、朝礼で、『昨日線路に入った子はいないですか?』とか聞かれたんだよ」
「うわ、こわっ」
「そうそう。近くの学校に警察とかから連絡が行ったんじゃねーかな。そこでやっと名乗り出たらしい」
「それ、たち悪いやつじゃん」
「そうそう」
「それは慰謝料上乗せとかになりそーだよなぁ……」
「いや、マジでそうだよな。いくらぐらい取られたんだろ、あいつら」
「鉄道会社によって、事故への対処は違うと思うよ」
高塔が突然声を出した。
「あ。起きてたのか、お前」
「うん……」
ゆっくりと俺から離れ、姿勢を正す高塔。
「電車が止まったことによる損害の額を、遺族とか被害者に請求しても、ほとんどの場合は払えないの。普通の人に払える金額じゃないから」
「へー……たしかに、一億払えなんて言われて、出せる人なんてあんまりいないかもね」
「そう。もちろん、ケースによっては支払わせることもあるみたい。けど、人身事故を起こすと賠償請求されるっていう話は、自殺したい人に電車に飛び込ませないためにある噂なんじゃないかって」
「……なんか、やたら詳しいなお前」
「調べたから。死に方を選ぶときに」
高塔の言葉で、グッと現実に引き戻されてしまう。
少しの間、意識せずにいたけれど、こいつは死にたがっているんだ。
いろいろ調べたってことは、首を吊るってやり方が、一番いいって結論になったんだよな……。
ギンも同じような感情を味わっているのか、床に視線を落としたまま何も言わなかった。
結局、心の安らぐような時間は長くは続かないものなんだな。
それにしても、空気が重い……重すぎる。
自分が死のうとしていることに対して、こんなに何の感情も出さずに口にできるこいつって、いったいなんなんだ。
今日、高塔に少し近づいたような気持ちになっていた。
こいつのことがわかるかもしれないと思った。
けど、こいつからしたら、多分全然そんなことはなかったんだろう。
なにを考えてるのか、まったくわからない。
「高塔は、笑ったりすることねーの?」
「ないと思う」
「えっ。最後に笑ったのって、いつ?」
ギンが続けて質問をした。
「……いつかな……。子どもの頃だと思う」
「子どもって……何歳くらいの話だ?」
「小学校に入る前、お父さんがよく遊びに連れていってくれたの。楽しかった。笑ってたと思う……よく覚えてないけれど」
「小学校に入る前って、すっげー昔だよね?」
「うん……。けど、小学校に入る頃にはもう、いろいろ変わってしまったから」
「いろいろって……何が変わったんだ?」
「お父さんがいなくなったから。死んじゃったの」
「あ……」
聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと思った。
ギンも、口を半分ほど開いたまま何も言わなかった。
なんだ……こいつも、俺とおんなじか。
「お母さんはずっと家の仕事をしてたから、それから働きに出るようになったの。仕事を探すのも、働くのもすごく大変だったみたいだから、私はそんな苦労をしないですむように勉強や習い事をしっかりやるようにって躾けられた」
こいつの口から語られる『お母さん』のことが、なんとなく具体的に見えてきた。
「やらないといけないことがたくさんあって……楽しいこととか、笑うことなんて、全然考えなくなった」
「……清子ちゃんさ。躾が厳しすぎるって思うんだったら、ちゃんと、お母さんに言わなきゃ。お母さんの言うこともわかるけど、清子ちゃんがそんなに追い詰められてるんだったら……」
ギンが話し終える前に、高塔は首を横に振った。
「違うの。お母さんが私にしろって言うことは、間違ってないと思う」
「けどさぁ……」
「勉強も習い事も嫌じゃなかったよ。それにお母さんは、仕事を始めてから毎日遅くに帰ってくるような生活をしながら、私のこと育ててくれた。私立の学校にも通わせてくれてる。立派な大人なんだよ」
高塔はギンが話し出そうとするのを遮るように、言葉を紡ぎ続けた。
「けど、お母さん、仕事を辞めさせられてしまったの。次の仕事がなかなか見つからないみたいで、きっとストレスが溜まっていると思うんだけど、いつも怒ってて……家で暴れたりするようになった」
「そんな……ひどすぎるよ、そんなの! 清子ちゃん、まさか、暴力振るわれたりしてないよね?」
返事をしない高塔。
否定しないということは、そういうことなんだろう。
「それは、いいの。すごく酔ってる時にしかそうはならないし……。私が辛いのは、そんなことじゃないの。私の、これまでと、これからの人生が、何の意味もないものにしか思えなくなってしまったから」
「お母さんは一生懸命働いて、お金をかけて私にたくさんのことを勉強させてくれたし、お母さんはたくさんのことを私に教えてくれた。お母さんは苦労の多い人生だったから、私はそうはならないようにって真剣に考えてくれてた。『今のうちにたくさん勉強をしておけば、良い人生が送れる』ってよく言っていた」
「なのに、お母さんは仕事を失ってしまって……私のこと、生むんじゃなかったって言った。それはいいの。だけど、お母さんがそこから立ち直れない姿を見ていると……お母さんの言うとおりに生きてきた私って、なんなんだろうって……」
「それに、私が生きていることで、どれだけお母さんに迷惑を掛けているんだろうって思うの。これから先のことを考えたら、不安でいっぱいなのに、どうして生きていないといけないんだろうって」
「こんな気持ちを抱えながら生きているくらいなら、死んだほうがいいとしか思えなかった。私がいなくなることでお母さんの負担が軽くなるなら、生きている理由なんてないなって……」
高塔はそれから先は話さなかった。
俺たちもなにも言えなかった。
思っていたよりも、高塔ははるかにさまざまなことを考えたうえで死のうとしている。
その事実に、俺は、これからどうすればいいのかわからなかった。
俺たちが初めて会ったのは月曜日で、今日が土曜日……あと二日で何も変えられなかったら、こいつは死ぬだろう。
どれだけ思考を巡らせても、俺には、こいつを助けることができる方法なんて考え付けなかった。
やがて、電車が動き出した。
車輪が悲鳴を上げるように軋む音を立てて、電車はゆっくりと動き出し、風景も少しずつ流れていく。
高塔は眠らなかったし、俺たちは何も言えないままだった。
そういえば、正面に神羽川が見えるということは……。
後ろを振り向くと、遠くに海が見えた。
沈みかけの太陽に照らされた海は、オレンジ色の輝いていた。
電車は橋を渡り終えて、やがて海も見えなくなっていった。
一日が終わる。