7/それでも夜は星をつれて

いつもどおり、木の下に高塔はいなかった。
「はー、重てー!」
ギンは鞄を地面に置き、木の幹に背中をもたれて座り込んだ。
いつもは空っぽのギンの鞄だが、どうやら今日はそこそこ重みがある物が入っているようだ。
「今日なにをするか決めるのは、おまえってことでいいんだよな?」
本当は昨日がギンの番だったのだが、話をしていたらなにもしないまま一日が終わってしまった。
「うん、俺でいいよ」
「んで、なにすんだ?」
「いやぁ、それは内緒っしょ」
「ふーん……あっそ」
まぁ、鞄の中の物を使うのは間違いないだろうな。
考えてみると、昨日も少し鞄を重たそうにしていた気がする。
「へへへ……清子ちゃん、早く来ないかなぁ」
そう呟くギンの目は、らんらんと輝いている。
昨日こいつと別れた時は、この世の終わりが来たとでもいわんばかりの落ち込みようだったが、今日は学校でもそんなに辛そうな様子ではなかった。
空元気でやっているのかとも思ったが、そういう演技ができるやつでもないし……。
鞄の中には、そんなに元気が出る物が詰められているのだろうか。
まさか、エロいもんじゃないだろうな……。
「あ! 来た来た! 清子ちゃーん」
ギンが高塔を見つけて、大きく手を振る。
……あんなに遠くにいるのに、よく見つけたな。
やっぱり、今日のこいつは一段とテンションが高い。
まぁ、昨日みたいな調子だと、こっちも困るし、こっちのほうがまだいいか。

「じゃーん!!」
ギンは鞄の中から、長方形の箱を取り出した。
「……なんだそれ?」
その肌色っぽい箱と、そこに書かれた金色に輝く英語の文字は一目で上質なものだということがわかる。
そしてその真ん中のあたりに、筆で書かれたような偉そうな漢字が踊っている。
「酒だよ、酒!」
顔いっぱいの笑顔で言ってのけるギン。
「おまえさぁ……」
なにか言おうと思ったものの、呆れて言葉が出なかった。
「いやぁ、大人がよく言うじゃんよ。酒こそ人生最大の喜びみたいなことをさ! 俺、これまでちゃんと飲んだことないから、みんなと一緒にチャレンジしてみようと思ってさ」
確かに、酒を飲んでいる大人が楽しそうにしているのはわかる。
「俺には、ただ馬鹿騒ぎしたいやつが酒に頼ってるだけにしか見えねーけどな」
「まーまー、そんな固いこと言うなって!」
言いながら、ギンは箱のふたをカパッと開けた。
箱の前面を引くと、そのまま取れるらしい。
中には、琥珀色の液体がたっぷりと詰まった大ぶりの瓶が収まっている。
箱の内側は全て金色になっていて、光を艶めかしく照らし返している。
……こんなにわざわざ高級感を出してくるデザインが施されているってことは、もしかして、これ高い酒なんじゃないのか?
「ていうかおまえ、その酒、どうしたんだよ」
「親父の部屋からパクってきた」
「それ、バレたらやばいだろ」
「大丈夫だって。親父の部屋、酒いっぱいあるし。それにこれ、何年か前からずっとあったんだよ。だから多分、買ったの忘れてんでない?」
そういうもんなのか……?
大事なものだから取ってある、という可能性の方が高い気がする。
「ま、とにかくそういうことだからさ。今日はみんなでハイになろう!」
ギンは瓶を掴み、キャップに辺りに巻かれていたラベルを剥がした。
「うあ! 俺知らねーからな」
これでもう新品とは呼べなくなってしまった。
「だから、そもそも飲むために持ってきたんだってば!」
キャップを回して、瓶から取ってしまった。
あぁ……もうこれで引き下がれないぞ。
酒って、高いやつは信じられないくらい高いらしいから、これだってもしかするとゲーム機が一体くらい買えてしまうような物かもしれない。
「じゃあ、まず俺からいくよ!」
ギンは瓶を先端に口を付け、一気にあおった。
「うわ、思いっきりいきやがった……」
そして五回ほど喉を大きく動かしてから、瓶から口を放した。
「ぶはぁーっ!」
大きく吐き出された息は、かなりアルコールくさい。
「おまえさぁ……なんで最初の一口で、そんなに一気にいくんだよ」
「えぇ? そりゃおめー、早く酔っ払いたいからに決まってるじゃん」
「……」
返す言葉が見つからなかった。
まぁ、いろいろ溜まっているものがあるんだろう。
「じゃ、次、由紀彦いっちゃってくれい」
ずい、と酒の瓶をこっちに押しつけてくるギン。
「おい……俺はいいよ。飲まない」
そもそも、酒があまり好きじゃない。
瓶の中では、蜜を溶かしたような水がたぷたぷと揺らめいている。
これが安物なのか高級品なのかはわからないが、こんなものに大人たちが喜んで金を払っていることは全く理解できない。
瓶の口から漂ってくるにおいを嗅いだだけで、気分が悪くなりそうだった。
「なに言ってんの由紀彦、ツレないなぁ」
「いや、いいって」
「なに? ビビっちゃってんの?」
「は? なんでビビってるって話になるんだよ」
「いやぁ、やっぱり、酒に弱いなんてことがバレちゃったら恥ずかしいもんね」
「別に弱いとか強いとかじゃねぇよ。飲みたくねーってだけだよ」
酒を飲んで羽目を外すような大人にはなりたくない。
酒に飲まれて自分を見失うような真似だけはしたくない。
俺は酒そのものが好きじゃないんだろう。
「いやいや、いいよ由紀彦くん! 男として、これほどの屈辱はなかなかないもんなぁ」
「……」
こいつに見下されると我慢ならないのは、なぜなのだろう。
なるべくにおいを嗅がずにすむよう、空気を吸い込んで、息を止める。
そして瓶をあおり、口に酒を流し込んだ。
「ム……」
刺激が強く、舌がびりびりしてしまい、思わず声が漏れる。
口の中に長く留めないよう、すばやく飲み下してしまう。
酒は溶岩のように、通ったところに熱をもたらしていく。
口の中も喉も、焼けただれたように熱くなった。
「おー、いったね由紀彦!」
ギンがにまにました目を向けてくる。
五口分ほど飲んで、瓶を下した。
「おら。これで文句ねーだろ」
酒が胃に到達したらしく、胸のあたりに火がついたかのような熱が生まれる。
水が欲しい。
舌の裏からつばがどくどく出てくる。
体がこんな反応を示すなんて、とんでもなく刺激の強いものだってことじゃないか。
やっぱり酒飲む大人の気持ちがわからない……。
「いやぁ、いい飲みっぷりだったよ由紀彦」
褒められても全然嬉しく思えないのは、どうしてなのだろう。
ちょっとばかにしている感じもあるからだろうか。
「はい、高塔」
瓶を高塔に向けて差し出すと、素直に受け取った。
もう飲んでないのはこいつだけだ。
「がんがんいっちゃおう!」
「わたし、飲まないよ」
瓶には目もくれずに答えた。
「えー! どうしてまた……」
「お母さんが、お酒なんて飲むなって言ってたから」
……こいつの母親はどんだけ固いんだ。
それにその母親の意見は全部忠実に守ってるこいつっていうのは、なんなんだよ。
自分のやりたいことはないってのか?
「高塔よぉ。なんでもかんでも親の言うこと聞く必要ねーだろ。飲みてーなら飲みゃいいし、飲みたくねーなら飲まない。それでいいじゃねーかよ」
気付いたらそんな言葉が口をついていた。
こいつの母親の話を聞いていると、まるで親子ではなく、もっと冷めたような関係に思える。
冷めた親子なんて珍しくないが、こいつがそのことを当たり前の関係として受け入れているところに、どこか納得がいかない。
「わたしはお母さんが働いて稼いだお金で暮らしてるんだよ」
「だからなんだよ」
「お母さんの言うことを聞くのは、当たり前じゃない」
「親が金稼ぐのは当たり前のことだろ」
「どうして当たり前なの?」
「自分で子ども作ってんだから、生まれたら食わせるのが責任ってもんだろ」
「わたしはもう、食べていけるだけのお金なら自分で稼げるよ。それなのに仕事をしないでもご飯も食べさせてもらってるし、学校にも通わせてもらってる。当たり前のことじゃないよ」
「いや、俺らの年だったらまだ学校に行ってるのが当たり前だろ」
「当たり前じゃない。学校に行ってない人だっていっぱいいる」
「……ちっ」
「ま……まぁまぁ二人とも。そんなに熱くなんないでよ」
ギンが大げさな身振りをしながら、俺たちの間に割って入ってくる。
「いや、こいつの言ってることがおかしいからだろ」
「おかしくないよ」
「じゃあおまえ、母親に言われたらなんでもするのかよ」
「なんでもするなんて言ってない」
「だったら、母親になんて言われたかなんてかんけーねーだろ。お前がそれ、飲みたいか飲みたくねーのかだよ」
「そ、それはそうだな。うん、清子ちゃんもちょっと飲んでみなよ」
「……あなたたちが親の言うことを聞かない理由はなに?」
「別に。俺は酒飲むななんて言われてねーよ」
母さんよく飲んでるし、わざわざ注意する事でもないだろう。
「まぁ……俺も酒についてはなんとも言われたことないかな」
ギンのとこのおばさんは、基本的にこいつに甘いしな。
「……そう」
「ままま、一口だけでも飲んでみてって。すっごい楽しい気分になるよ? 人生変わるかもしんないよ」
そう言われてみると、ギンの顔はだいぶ赤みがさしてきていた。
こんな話をしながらも、終始でれでれしているのは、酔いが回ってきているせいかもしれない。
「高塔さぁ。おまえが母ちゃん好きなのはわかったけど、自分にとっていいかどうかは、自分で試さねーとわかんねーだろ」
「好きとか嫌いとかじゃない。当たり前のことを言ってるだけ」
「もーほんと、二人とも! こんな時にけんかなんてしないでくれよ。俺の顔に免じてさ。ね?」
「おまえの顔になにを免じる力があるんだよ」
「ないっすか? ないっすかね?」
うわ……なんだこのめんどくせー絡み方は。
「ゼロだな」
「いやぁ、なんか気持ち良くなってきちゃったよね。もうちょっと飲んじゃおうかな」
ギンは高塔から瓶を受け取り、ぐびぐびとアルコールを補給した。
「くあーっ。たまんないなぁ!」
「よくそんなに飲めんなぁ。苦いだけだろ」
「いやいやぁ、全然そんなことないっしょ。由紀彦がすぐに飲みこんじゃってるだけでねーの? ちゃんと口の中で味わえば、違いがわかるって。ほら!」
手に瓶を握らされる。
「おまえ、酒飲んだことねーっつってたのに、違いがわかるもクソも……」
「まぁまぁ、細かいことはいいじゃんいいじゃん! ほら、グイっといっちゃおうぜ」
「……しょうがねぇなぁ」
とりあず一口だけ、酒を口に含んでみる。
「んぐ……」
「すぐ飲みこまないで、舌で酒をなめるみたいにしてみ?」
さっきよりは刺激を感じなくなっていたので、口の中に留めて舌を動かしてみる。
……が、しかし、やっぱり苦味が強く、どんな味がするのかはほとんどわからない。
ましてやうまいとは思えないので、結局喉に流し込んでしまった。
「……ん?」
口の中が空になると、ほのかに甘いものが残っているような気がした。
どこか蜜のような香りが、鼻をすっと抜けていく。
「あ、ちょっとわかってきたかも」
「だろ? なんか甘い感じがするよな。いいねこいつ。なかなかやるじゃん。この、あまり……し?」
瓶のラベルに書いてある漢字とにらめっこしながら言うギン。
「どっちも読み方間違ってんじゃねーかよ。お前、ほんとにそんなんで受験どうにかなんのかよ」
「やめろい! こんなに気分が良い時に、受験のことなんて考えさせないでくれい!」
瓶をひっつかんで、ぐびぐびと酒をあおるギン。
……どう考えても、飲みすぎだよなこいつ。
「ぷはーっ。受験なんかどっか消えちまえばいいんだよ。ほんと」
「まぁ、それは同感だけどよ」
「由紀彦、思ってる? 本気で受験消えろって思ってる?」
俺の肩に手を回してくるギン。
その息を酒臭いと思わないってことは、俺も相当酒が回ってるんだろうな……。
「いや、思ってんよ。めんどくせーじゃん」
「けどさぁ、なんだかんだ言って、由紀彦はけっこう勉強してんじゃん」
「そりゃするだろ」
「本当にめんどくさいって思ってたら、しないんでねーの?」
「だから、めんどくせーけど、受験があるんだから勉強しねーといけねーだろ」
「ほら! そこだよそこ。本気で受験消えろって思ってたら、受験のために勉強するなんておかしいじゃんよ」
「……お前、受験消えろって思ってて、本当になくなることがあると思ってんの?」
「あるかもしんないじゃん。地震とか戦争とか、総理大臣が受験なくしたりとか」
「あるわけねーだろそんなん! ばかじゃねーのか!?」
だいたい受験がなくなるくらいの地震とか戦争が起きたら、もっと悲惨だろうが。
「はぁ……由紀彦もしょせんその程度か。受験なくなれ同盟は解散だな」
「そんなに過激な思想を持ってなきゃいけないなら、最初から入れねーわ俺」
ギンはなにも答えずに、また酒を飲む。
受験を面倒だと思っていない学生なんていないと思うが、ここまで嫌がっているやつもいないだろうな……。
いつになったら勉強をするようになるのかと思ってたけど、もしかしたら本番までこの調子なのかもしれないな。
受験では二年の時の成績も評価の対象だから、すでにギンはめちゃくちゃ不利だ。
やっぱり、こいつとは進学したら別の学校になっちまうだろうなぁ……。
「……なんでみんな、勉強なんてやってられるんだろ」
「バカな学校に行きたくねーからだろ。今にもまして周りがバカばっかだったら、やってらんねーだろ?」
成績が良ければ、ランクの高い学校にも合格できる。
公立でも私立でも選択肢が増える。
頭も成績も本当に悪いやつとなると、最低ランクの滑り止めの私立にしか行けなくなってしまう。
噂でしか聞いたことがないものの、生徒の不良率は本当に高く校内は荒れ放題、近隣の住民からの苦情も止まないというような学校もあるらしい。
時尾には、もともと私立の学校があまりないので、そういう学校にしか行けないとなると通学にもえらく時間がかかることになる。
学校にはバカばっかりだし、通学には時間もかかるなんて、今よりも最悪だ。
勉強が楽しいなんて微塵も思わないが、せめて最悪な環境にしか行けなくなるなんてことを回避するために最低限のことをしているだけだ。
「別に周りがバカばっかでもいいけどなぁ。気楽でいいじゃん」
「おまえさぁ……呑気すぎるだろ、いくらなんでも」
ひどい学校では、二けたの掛け算が解けるというだけで成績優秀者と判断されることがあるらしい。
一年の英語の授業ではABCから教える学校もあるという噂だ。
こいつ、受験先について全然調べたりしてないんじゃないのか……?
「ずっとピリピリしてるよりは、そっちのほうがいいよ俺は」
このままだと、まともな学校生活が送れないレベルのところにしか合格できないかもしれないっていうのに、こいつは……。
「まぁ……おまえの人生だから、俺がどうこう口出すことじゃねーけど」
それに、俺は私立ではなく公立の学校に行きたい。
私立には高い学費がかかってしまうからだ。
咲子も数年後には受験をするかもしれない。
今でも塾に通っているし、母さんはあいつを私立の学校に行かせたいと考えているらしい。
俺が私立の学校に行ってしまうと、咲子の受験にあまり金をかけられなくなってしまうかもしれない。
どうせ、特別な勉強をしたいわけではないのだから、私立ではなく公立を目指すのは自然な流れだろう。
「清子ちゃんは受験とかしないでも進学できるんだもんね?」
そういや、神羽はエスカレーターだったよな。
「成績がよほど悪くなければ、できる」
「いいなぁ。いいなぁ。俺も、神羽に行けばよかったなぁ」
「あほか。どっかの段階で受験してないと、入れねーよ」
そもそも神羽が女子校だという突込みは面倒なのでしない。
「清子ちゃんはいつ神羽に入ったの?」
「小学校を卒業したあと」
「いいなぁ。今受験するよりも、二年前に受験してたほうが、テスト簡単じゃん」
「そりゃそうだろうけどよ。自分の脳みそも二年前のレベルなんだから、別に楽になるってわけじゃ……」
「いいなぁ清子ちゃん。受験がないとか、天国じゃん」
受験をしなくても進学できるっていうのは、確かにうらやましくはある。
けど、このあともまた三年は神羽に通うんだったら、合わせて六年は私立にいるわけだよな。
大学にもそのまま進むとしたら、十年か。
……高塔の親は、どれだけこいつに金をかけているんだろう。
そう思うのは、学校が私立だというだけのことではない。
はじめて会った時から思っていたが、高塔は制服も鞄も靴も、かなり新しいものを使っている。
……他の家の金の事情を詮索するってことがどれだけいやしいことかは、わかっているつもりだ。
けれど、気になってしまったことを意識から外すことは、とても難しいことだった。
天国ってことはないだろう。
むしろ、天国にいるんだったら、自殺しようなんて思うこともないはずだ。
こいつはこいつなりに、自殺を試みるくらいには、生きているのが嫌になるようなことがあるのだろう。
……しかし、こいつと会ってから何日か経ってみて、いくつかわかったこともある。
学校でいじめを受けている。
教師は解決してくれそうにない。
親に言うつもりはない。迷惑をかけたくないから。
その母親は厳しく、高塔は言いつけをしっかり守るいい子ちゃん。
……こんな環境で、死にたいとまで思うものだろうか?
少しなんとかしようと思えば、変えられることばかりじゃないか。
学校でちょっかいを出してくる奴には抵抗すればいい。
母親の言うことなんて気にしなければいい。
少なくとも金には困ってねーんだから、なにもすぐに死ぬ必要なんてないんだ。
……自殺する気力があるんなら、降りかかってくるものを払いのけろよ。
「ところで清子ちゃんさ、どう? 楽しい? 楽しんでる?」
「……どうなのかな。わからない」
わかんねえって、おい……。
まぁ、確かに、大したことしてやれてるわけじゃないけれど、こうして、自分のやったことがなんの意味もなかったってわかると、気持ちよくはないな……。
「んー、そっかぁ……。けっこう頑張ってんだけどなぁ。な、由紀彦」
「ん? あぁ、まぁ……」
頑張ってなんかいない。
ギンが最初に言った、楽しいことを一緒にやってればいいって話を鵜呑みにしてここまできただけだった。
こっちがてきとーにやってるだけだから結果が出ないだけなのかもしれない。
つまり、高塔の心を動かすことができていないということ。
……けれど、こっちがなにをしたって、高塔はなにかを感じることなんてないんじゃないかという気もした。
楽しいという明るい気持ちはもちろん、つまらないとか嫌だとか後ろ向きな気持ちも……。
俺たちはこれまでこいつと一緒にいて、なにかを感じさせることができただろうか。
こいつは、どんな時に心が動くのだろう。
こんなに心の動かないやつが、死のうなんて思うのはどうしてだろう。
ふつうに生きてれば、死のうなんて思うことはないはずだ。
ふつうじゃないくらい大きななにかがあったっていうのか?
……こうして接していて、こいつからは、死のうとしているような切羽詰ったものを感じない。
こいつは、本当に……。
「けど、まだあと三日! 三日もあるからさ! 明日と明後日は、学校も休みだし、一日遊ぼうよ!」
ギンはめげずに、陽気さを保ちながら高塔に言葉をかけ続ける。
まぁ、酔っぱらってるせいで気分が高揚しっぱなしなだけかもしれないが。
「清子ちゃん、俺も昔、死にたいって思ったこと……」
「死なねーだろ」
死、という言葉が耳に入ってきて、反射的に考えていたことが口をついてしまった。
「……え?」
顔は笑ったまま、口から引きつるような声を出すギン。
多分俺の言葉は、こいつらにはっきり届いてしまった。
「別に高塔、ほっといても死にやしねーだろって」
引っ込みがつかなかった。
「な、なに言ってんだよ由紀彦……」
さすがにギンの顔からは笑いが剥がれ落ちていた。
「だって、そうだろうがよ。本当に死のうと思ってるやつが、はじめて会ったやつに引き止められて、死ぬの止めるなんておかしいだろ」
「そ、それはさ……」
ギンは俺の方を向きながら、高塔の様子をちらりと横目で見やった。
高塔の表情は相変わらずだった。
なにを考えてるのかまったくわからない。
きっとこいつの心はなんにも動きをみせない。
「はなから、死ぬつもりなんてなかったんだろ? 死ぬ振りして、悲劇のヒロイン気分に浸ってただけだろ」
自分で言って、挑発的な口調になっているのがわかった。
普段の自分ならこんな劇がかったような言い方はしないと思った。
なにかが、俺の心を高ぶらせていた。
心なしか、高塔の目つきは険しくなっているように見える。
しかし、なにも言おうとはしない。
その落ち着き払った態度が、また、妙に癪に障った。
「なんとか言えよおい」
「由紀彦、やめようぜほんとに……」
ギンが俺と高塔の間に割って入った。
「死ぬつもりだった。今も死のうと思う気持ちは変わってない」
ぽつりとこぼした。
「……そういう言い方が悲劇のヒロインぶってるっつうんだよ!」
「……悲劇のヒロインぶるっていう考え方が出てくるっていうのは、あなた自身が悲劇の主人公ぶりたがってるからじゃないの?」
「て……てめぇ……!」
その言葉には鋭い棘が混じっていた。
まさかこいつから、こんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「ふざけんなよ! ほんとに死にてーっつうなら、やってみろよ! クソ女が!」
「由紀彦! お前、いい加減にしろよ!」
ギンが俺の目の前までやってきて、肩を掴んできた。
「止めんじゃねえよギン、お前も今の聞いただろ!? この女……」
「由紀彦が先に突っかかってたじゃん! 冷静になれよ!」
ギンにもむかついた。
自分も酔っぱらってるくせに、なに、女の味方ぶってんだ。
女のこと守ってかっこつける男が一番むかつくんだよ。
「離せよ、クソ!」
ギンの手を振り払い、高塔に向き直る。
「お前な、そんな性格だから学校で……」
言いかけて、高塔が鞄を手から下げていることに気付いた。
帰ろうとしているのかもしれない。
一瞬そう思ったが、鞄のチャックが開けられていて、右手には細長いものが握らていた。
赤いカッターナイフだった。
「お、お前……」
切りつけられるのかと思い身構えたが、高塔は足を動かさずに、その場で話しはじめた。
「約束をして。絶対に途中で止めないで。人や、救急車を呼んだりしないで。私をここに置いて、あなたたちは戻ってこないで」
言いながら、高塔はカッターを握った右手で、左での袖をまくりあげた。
あらわになった白い腕を、手のひらを上に向けるようにねじった。
「放っておいてくれれば、そのうち死ねる。中途半端に助かってしまうのが一番困るの。だから約束してね」
親指でカッターの刃を押し出した。
カチカチと音が鳴り、銀色の刃が少しずつ姿を現した。
新品なのだろう。
サビや刃こぼれはまったく見当たらず、木々の間からこぼれ落ちてくる光をあやしく反射させていた。
「き、きよこちゃん……? 冗談だよね……?」
猫や子どもをなだめつかせるような声で言うギン。
俺はなにも言葉を返せなかった。
ただ、光る刃と、白い腕から目が離せなかった。
演技だろ、と心のどこかで思っているのかもしれない。
自分の目の前で人が死ぬ……ましてや自殺するやつなんて、いるわけがない。
「さようなら」
つぶやいた高塔は、刃の先端を左手の手首に近付けた。
リストカットってやつだろう。
知っている。
そんなことじゃ死ねないってことを。
パフォーマンスに過ぎないってことを。
やっぱりこいつは、その程度の……。
「清子ちゃん!」
銀平が高塔の方へ、足を踏み出した。
土埃と枯葉が舞い上がる。
「っ!」
高塔の顔が驚きにこわばった。
そして、カッターの刃が、手首の腱の間にめり込んだ。
……リストカットっていうのは、たしか、手首を横に薄く切るんじゃなかったか?
高塔の右手は、カッターを手首の真ん中から体に向けて引こうとしていたように見えた。
「やめてよ! 本当にごめん、けど、こんなの、おかしいって……」
ギンは高塔の両手を掴んだ。
カッターは高塔の手を離れ、小さな音を立てて地面に落ちた。
高塔は少し困ったような表情を浮かべている。
抵抗している様子はなかった。
「清子ちゃん、大丈夫?」
ギンが高塔の左腕を少し持ち上げる。
その左腕からは、細く血の筋が流れ出していた。
「あ……あ……う、わ……」
ギンの顔からみるみる血の気が引いていった。
「ご、ごめん、俺、ちょっと……」
高塔から手を離し、自分の口元をおさえるギン。
「……おい、どうしたんだ?」
「……うわっぷ」
そしてあらぬ方へ駆け出し……
「げぇぇっ。うおえぇっ」
嘔吐した。
吐けども吐けども、ギンはとめどなくぶちまけ続けた。
「……」
さすがの高塔も、少し動揺しているようだ。
こいつがギンに気を取られているすきに、俺は地面に落ちたカッターを拾ってポケットに突っ込んだ。

「……ごめん。俺、血が苦手なんだ。見ると気分が悪くなっちゃって……」
顔色は悪いままのギンが言った。
まぁ、慣れない酒をがばがば飲んでいたのも、原因の一つではあるだろう。
「清子ちゃん、手、痛くない?」
「……痛くは、ない」
「……ばい菌入るといけないから、洗いに行こう」
高塔は考え込むような仕草を見せた。
「こんなの、やめようよ。一週間、楽しいことしようって決めたんだからさ。頼むからもう、こんなことはしないでよ」
ギンは自分の足元を見ながら言った。
俺への言葉なのか、それとも高塔に向けられているのか、わかりにくかった。
「……由紀彦さぁ。あれはちょっとひでぇよ。俺もかなりひどかったけどさ……」
「……あぁ。悪い」
「俺に言うんじゃなくって! 清子ちゃんにだよ」
「……」
謝る気にはなれなかった。
高塔も、考えているような顔のまま、どこか斜め上の方を見ていた。
こいつの左手に目を落とすと、細くなまっちろい腕に、小さく肉の裂け目ができていた。
生々しく赤い色に染まったその傷は、見ているだけで痛々しい。
「……頼むよ。あと三日、楽しくやろうよ。な……?」
「あぁ。やってみるよ」
目の前で、人が自身を傷つけるなんて、はじめて見た。
俺は、どうすればいいのか、わからなくなっていた。